歴史の補足

サン・バルテルミの惨劇 フランスの歴史

虐殺跡を視察するカトリーヌ サン・バルテルミの虐殺

いつもは歴史の人物の1人にスポットを当てて記事を書いていますが、今回は補足を込めて「サン・バルテルミの虐殺」という出来事についてまとめていきたいと思います。

察しの良い方は、「ああ次はあの人を書く気だな」と思うかもしれません。前々からこの辺りの事変についてまとめたかったので、良い機会だと思っています。

宗教、思想の違いで起こったフランスの宗教内乱、サン・バルテルミの虐殺について、さっそく書いていきます。

背景にあるユグノー戦争

16世紀初頭から、フランスではカトリックとプロテスタントの対立が起こっていました。

プロテスタントとは1517年にマルティン・ルターによってローマ・カトリック教会から分離した新しいキリスト教派です。(カトリックを旧教と呼び、プロテスタントは反対に新教と呼ばれています。)

フランスではカルヴァン主義の派閥を「ユグノー」とも呼んでいます。歴史に詳しくない方でも、もしかしたら知っている単語かもしれません。

ローマ帝国で認められたこの新教プロテスタントは、やがてフランスへも浸透していきます。そしてカトリックとプロテスタント(ユグノー)両者の対立が大きくなり、いわゆる「ユグノー戦争」が勃発します。

1562年3月、ギーズ公フランソワが日曜礼拝に集まっていたプロテスタントを襲撃し、70人以上を虐殺した事件がこの宗教戦争のきっかけでした。

フランスではこの宗教戦争がその後35年間に渡って繰り広げられます。

カトリーヌ・ド・メディシス

当時、フランスではわずか10歳の少年シャルル9世が即位していました。王の成人年齢は満13歳と決められていたため、母であるカトリーヌ・ド・メディシスが摂政となり、絶大な権力を振るっていました。

カトリーヌはカトリック信仰者でしたが、プロテスタントに対しても融和的な姿勢を見せていました。どちらにもつかず、上から全体を把握しようとしていたのです。

そして、両者の融和をはかるためにカトリーヌはあるアイディアを実行します。

それはブルボン家のナヴァール王アンリ(のちのフランス国王アンリ4世)と、自分の娘マルグリットの結婚でした。

アンリはユグノーの盟主となっていた人物です。

コリニー暗殺未遂事件

1572年8月17日に2人の結婚式が行われて、ユグノーの首領コリニー提督らをはじめ、多くのユグノー貴族がパリに集結していました。

ところがこの数日後の22日にコリニーが何者かに襲撃されて負傷します。カトリック側から見れば危険な人物であったコリニーの暗殺計画。犯人は特定されませんでしたが、カトリック側の仕業であることは明らかでした。

サン・バルテルミの虐殺

そして火蓋が切られます。

「聖バルテルミ」の祝日にあたる同月24日未明、カトリック側がプロテスタント勢力を根絶やしにしようと刃を向けたのです。

真っ先に狙われたのが、数日前に奇襲されていたコリニー提督でした。彼は今度こそ凶刃に倒れ、その他のプロテスタント貴族も命を奪われました。

事件はギーズ公アンリ(ギーズ公フランソワの長男)によるものでしたが、カトリーヌ・ド・メディシスも陰謀に加担していたと見られています。

虐殺跡を視察するカトリーヌ サン・バルテルミの虐殺
虐殺跡を視察するカトリーヌ  出典:Wikipedia

当初はコリニー提督と一部の貴族だけを殺害する目的でしたが、燃え広がった勢いは首謀者らの思惑をはるかに超えるものでした。

華やかな結婚式が一転、血生臭い惨劇の舞台に変わったのです。

このプロテスタントへの虐殺は瞬く間にパリ中に広がり、地方にも波及して少なくとも3000人以上のプロテスタント側の死者を出す大事件へと変貌したのです。(フランス全土だと、死者は1万人を超えるとも言われています。)

この凄惨な事件は8月30日まで続いたのだから、生き残ったプロテスタントは戦々恐々としたに違いありません。

終わりに

サン・バルテルミの虐殺は「聖バルトロメの大虐殺」あるいは「聖バーソロミューの虐殺」とも言われています。

ユグノー戦争期間中ということもあり、第四次戦争とも扱われています。この後も「三アンリの戦い」があり、「ナントの勅令」をアンリ4世が出すまで泥沼の争いが続いたのです。

参考文献

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  • 新人物往来社(編)『フランス王室1000年史』2012 新人物往来社

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  • 加藤雅彦(著)『図解 ヨーロッパの王朝』2016 河出書房新社
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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。