フランス

カトリーヌ・ド・メディシス 苦しみぬいた悪女

カトリーヌ・ド・メディシス

フランスにイタリア文化を持ち込んだ女性として知られる、カトリーヌ・ド・メディシス。しかし、彼女を最も有名にしたのが「サン・バルテルミの虐殺」でしょう。

「稀代の悪女」とも揶揄されるカトリーヌですが、その生涯は苦しみや悲しみに満ちていました。今回はそんな彼女についてまとめていきます。

生い立ち

カトリーヌ・ド・メディシスは1519年4月13日、イタリア・フィレンツェで誕生しました。

父はフィレンツェの僭主(せんしゅ)ロレンツォ2世・デ・メディチ。母マドレーヌはフランス貴族の娘でした。

イタリア生まれのカトリーヌは、生まれた時は「カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ」という名前でした。

しかし彼女が生まれてすぐ母が亡くなり、父も梅毒によって急死します。生後数十日で両親を亡くしたカトリーヌは孤児となってしまったのです。

もし女性が家督を継げたのなら、ルネサンスが花開いたフィレンツェの支配者としての未来があったでしょう。しかし、女子であり孤児となってしまったカトリーヌは低い身分に甘んじなければなりませんでした。

その後、カトリーヌは様々な人たちに引き取られ、育てられました。

生まれてすぐ両親が亡くなり、不遇のスタートを切ったカトリーヌ。1523年にメディチ家出身の教皇クレメンス7世た選出されて、一時期は権力抗争に巻き込まれ、人質になり修道院にも送られたりもしました。

一時奪われたメディチ家の権力は、1530年にカール5世の支援で復活。教皇クレメンツ7世はカトリーヌを迎え、年頃になっていた彼女の夫探しを始めます。

いくつかの候補がある中、オルレアン公アンリの縁談に話がまとまります。ヨーロッパ一優美なフランス王族のアンリと、富豪ではありましたが貴族ではないメディチ家出身のカトリーヌ。周囲から「不釣り合いだ」という意見も出ましたが、イタリアとの関係とメディチ家の財産を狙ったフランソワ1世(アンリの父で当時のフランス国王)が断行しました。

フランス・ヴァロア家へ嫁ぐ

不遇の幼少期を過ごしたカトリーヌにとって、華やかなフランスでの生活がスタートする…はずでした。

アンリとの結婚
出典:Wikipedia

14歳になっていたカトリーヌは、1533年10月28日にアンリ王子と結婚式を挙げました。

しかし、またしてもここで彼女に不幸が舞い込みます。

結婚して一年足らずで、カトリーヌの後押しをしていた教皇クレメンス7世が亡くなってしまったのです。

新教皇パウルス3世は、約束していたカトリーヌの持参金の支払いを拒否。メディチ家の財産を狙っていたフランソワ1世からすれば、寝耳に水。彼は「この少女は素っ裸で私のところへ来た」と嘆いたそうです。

さらに彼女を苦しめたのは、夫アンリには母ほども年の離れた愛人がいたのです。

ディアーヌ・ド・ポワチエというこの愛人は、いくつになっても老いることなく美しく、また政治的センスも持ち合わせた才色兼備な女性でした。

それに対し、不幸の中を生きてきたカトリーヌは目が突き出たメディチ家特有の顔をしており、消して美しい女性ではなかったそうです。どこか陰があり、華やかさに欠けていたのです。

フランス王太子妃へ

アンリ2世 フランス国王
アンリ2世
出典:Wikipedia

1536年にアンリの兄が病死し、王位継承権がアンリに譲られます。

フランス王妃になることも視野に入ったカトリーヌにとって、いよいよ夫アンリとの子をもうけなければなりませんでした。

しかし相変わらず夫の愛はディアーヌに向けられ、自分は一向に相手にされません。周囲の目も冷ややかで、夫婦に子供ができないのはカトリーヌの方に問題があるのではという声まで出ています。(1537年にアンリは別の愛人との間に子供を授かっていたため。)

子供を授かるために、妊娠に適していると言われた呪いや薬は何でも試したといいます。何としてでも王太子妃としての役目を果たさなければ、フランスを追い出されてしまうかもしれない。彼女は必死でした。

そんな中、恋敵であるはずのディアーヌがカトリーヌの寝室に頻繁に訪れるようになります。そこで色々なアドバイスを受けたのでしょう。1544年1月20日には、カトリーヌはついに念願の第一子を授かります。

なぜディアーヌがカトリーヌを気遣ってアドバイスしたかは推測の域をでませんが、元々2人の結婚に賛成していたディアーヌ。それに元はといえばディアーヌはアンリの家庭教師をしていた身。将来のフランス王夫妻に子供がいないことを憂いたのか。はたまたそんな夫婦の愛を強奪してしまった形への贖罪か、定かではありません。

その後もカトリーヌは妊娠と出産を繰り返し、王妃になる前には9人の子を出産しました。しかしそれでも、夫アンリの愛は依然ディアーヌに取られたまま。しかも、子供達の教育もディアーヌに任せるというのです。この時、カトリーヌが嫉妬に狂ったのは間違いないでしょう。

ついにフランス王妃になる

1547年フランソワ1世が死去し、ついにアンリ2世として夫が即位します。これによってカトリーヌはフランス王妃となったのです。

王妃になっても、彼女の心から憂いが消えることはありませんでした。

欲しいと思っていたロワールの美しいシュノンソー城も、与えられたのはディアーヌの方でした。

カトリーヌはずっと夫の愛に飢えて、ディアーヌへの嫉妬に燃えていました。

子供たちはすくすくと育ち、3人の王子たちにも恵まれて、ヴァロア家は安泰のように思われていました。

愛は得れずとも、王妃としての責務は果たしたと言って良いでしょう。長男であるフランソワにも、幼い婚約者メアリー・スチュアートが迎えられました。

このメアリーからも、カトリーヌは貴族の出ではなかったことから「商人女」などと陰口を叩かれていたそうです。

そんなカトリーヌは占い好きで、ノストラダムスにも相談をしていました。そしてそこで、彼女は恐ろしい予言を聞いてしまうのです。

夫アンリ2世の死

1559年7月、馬上試合中に相手の槍がアンリ2世の目を貫く事故が起こります。そして治療の甲斐なく、数日後にアンリ2世は崩御しました。

死の間際にもディアーヌの名を呼ぶ程、彼女に傾倒していた王。

もちろん、屈辱的な日々をずっと側で耐えてきた王妃。

最愛の夫を亡くした彼女はそれ以降喪服で過ごし、悲しみに暮れます。しかし、それと同時に復讐心がメラメラ燃え上がってきます。

カトリーヌは夫が愛人ディアーヌに贈ったものをチェックしていました。アンリ2世の死後、彼女はディアーヌに全て返せと突きつけました。もちろん、あのシュノンソー城もその一つです。

処刑されなかっただけマシ、だったかもしれません。ディアーヌは処刑されることも幽閉されることもなく、残りの人生は別の領地を与えられて静かに暮らしました。この辺りは、嫉妬に狂いながらもカトリーヌなりに思うところがあったのかもしれません。

(私の推測ですが、子作りのアドバイスや機会を設けてくれたのは、本末転倒な気もしますが、ひとえにこの愛人のおかげでもありました。そして子供たちの教育係でもあった彼女。さらにいうと直系の先祖が一緒だったことも、カトリーヌの復讐の手を緩めたのかもしれないと思えてきます。)

さて。夫に先立たれ、目の上のコブだったディアーヌも追い出し、ついにカトリーヌの天下がやってきます。この時彼女は40歳。長く報われない人生から、政治の舞台へ上がって行きます。

国王の母として

長男のフランソワ2世が即位すると、王妃となったメアリーの親戚らが権力を掌握していきます。

自分を見下していた王妃メアリー・スチュアートも何食わぬ顔。カトリーヌはここでもまだ我慢していました。

ところが、元々病弱だったフランソワ2世は在位1年余りで病死してしまいます。1560年に彼の弟シャルル9世が即位しますが、まだ10歳の少年でした。

カトリーヌはシャルル9世の摂政となり、ついに政治に関わるようになったのです。

サン・バルテルミの虐殺

当時、フランスでは新旧キリスト教の争いが続いていました。そしてついにユグノー戦争へと繋がっていったのです。

カトリーヌは両者の争いを緩和させるために、自分の娘と、ブルボン家のアンリ(新教プロテスタント)を結婚させようと計画しました。(カトリーヌ自体は旧教カトリックです)

娘の結婚式当日、1572年8月24日。サン・バルテルミの祝日に事件は起こります。

虐殺跡を視察するカトリーヌ サン・バルテルミの虐殺
虐殺跡を視察するカトリーヌ サン・バルテルミの虐殺
出典:Wikipedia

結婚式のため、パリに集まっていたプロテスタントたち約3000人がたった2日の間に虐殺されたのです。

これはカトリック側によって計画された虐殺と言われており(もっとも、ここまで事が大きくなるとは想定していなかったようですが。)首謀者にカトリーヌの名前も連なっていたと憶測されています。

これが彼女を稀代の悪女と言わしめる原因です。サン・バルテルミの虐殺についてはこちらの記事もご参照ください。

晩年

サン・バルテルミの虐殺から2年後、シャルル9世も世継ぎを残さないまま没します。カトリーヌ最後の息子アンリ3世が即位するも、「三アンリの戦い」が始まります。

ギース公のアンリ、アンリ3世、ナヴァール王アンリ(カトリーヌの娘と結婚したブルボン家のアンリです。)との三つ巴の戦いです。

この争いの最中、カトリーヌは1589年1月5日に病死します。

そしてアンリ3世も子供を残すことなく、母の死から数ヶ月後に暗殺されてしまいました。これによりヴァロア家は断絶し、あとを継いだアンリ4世によってブルボン王朝が始まるのでした。

参考文献

ABOUT ME
kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。