フランス

シャルル=アンリ・サンソン 王党派でありながら王を処刑せざるを得なかった処刑人

シャルル=アンリ・サンソン フランスの死刑執行人 ムッシュー・ド・パリ

フランス革命時、多くの人間がギロチンに掛けられ処刑されたことは有名です。時の国王ルイ16世や、その妃マリーアントワネットも首をはねられています。他にもロベスピエールジョルジュ・ダントンルイ15世の愛人デュ・バリー夫人も含まれています。

処刑人一家に生まれ、敬虔なキリスト教徒でありながら、人々を処刑し続けたシャルル=アンリ・サンソン。今回はそんな彼についてまとめていきます。

生い立ち

シャルル=アンリ・サンソンは、パリの死刑執行人を生業とするサンソン家に1739年生まれました。

父はシャルル=ジャン・バチスト・サンソンで、三代目の「ムッシュ・ド・パリ」でした。この名称はフランスの死刑執行人を表す言葉で、数代に渡ってサンソン家が担ってきました。

死刑執行人という仕事は社会でも底辺の職とされ、罪人を惨たらしく処刑することから、忌み嫌われる存在でした。

シャルル=アンリ・サンソンはパリで生まれ(代々ムッシュ・ド・パリはパリに住むことを義務付けられていました)、素性が知られないようパリから遠く離れたルーアン学校へ入学するものの、死刑執行人ということがバレて退学させられています。

社会的底辺の仕事であり、それほど収入も高くなかったようですが、副業である医者としての収入が大きかったようです。(3代目の頃は医業だけで6万リーブルの年収があり、当時の工場労働者が400~700リーブルだったことから、かなりの高収入であったことがうかがえます。暮らしぶりも貴族同様免税特権も与えられていて、住む土地も広かったそうです。)

罪人に痛みをどう与えるか、どうすれば人が死ぬのか極めてきたからこそ、人体に詳しくなり、それを医療へと活かすことができたのです。また死体を解剖することも多く、その得られた知識は子孫に伝えられて活用されてきました。

忌み嫌われたサンソン家ですが、医者から見捨てられた病人や怪我人の面倒を診るなどして、彼らからの評判は高かったようです。

シャルル=アンリ・サンソンは実家でグリゼル神父に勉強を教わりながら、こうした先祖から受け継がれた医療の知識も身に着けていきました。

彼らサンソン家にとって、医療は慰めでもあったのです。それを表すように、貧しい患者からは1銭も受け取らず、無償で面倒をみてあげたそうです。(貴族などの金持ちからは高額の報酬を受け取っています。)

何をかくそう、このグリゼル神父も病で瀕死の状態だったところをサンソン家に救われ、学校を追い出されたシャルル=アンリの家庭教師を引き受けてくれた人物でした。病気のせいで醜く歪んだ顔をしていましたが、とても神に敬虔で、同じく蔑まれてきたシャルル=アンリの良き理解者にもなってくれていました。

そんなグリゼル師も、シャルル=アンリが14歳の時死亡してしまいます。シャルル=アンリはしばらく嘆き悲しんだといいます。

初の死刑執行

1755年に三代目であった父バチストが脳卒中で倒れると、シャルル=アンリ・サンソンが初めての処刑を行います。父バチストは7歳で死刑執行人になっていたのに対し、シャルル=アンリも15歳と未成年でした。が、がっしりとした体格と子供とは思えない雰囲気を持ち合わせており、父の代理という形で職務を引き継いだのです。

その裏には祖母マルトの働きがあり、シャルル=アンリを支えた人物です。

ちなみにシャルル=アンリが最初に処刑したのは、夫を愛人と共謀して殺害したというカトリーヌ・レコンバという若く美しい女性でした。流石に初めての処刑は上手く行かず、絞首刑を実行するのに数回失敗し、6回めで成功したそうです。

ダミアンの八つ裂き刑

1757年3月27日、18歳になったシャルル=アンリは、とんでもない処刑執行を目のあたりにします。

この刑には立ち会うだけで刑そのものには関わっていませんが、恐らく彼が見た刑の中で最もやり方が残酷な処刑だったに違いありません。

同年1月に、ルイ15世がダミアンという男に暗殺されかけたのです。幸い冬場で着込んでいた王は軽症で済みましたが、実行犯のロベール=フランソワ・ダミアンは死刑の中で最も重い「八つ裂きの刑」を宣告されます。

これは約150年前、アンリ4世を暗殺したフランソワ・ラヴァイヤックと同じものでした。

ダミアンはナイフを持っていた右腕を焼かれ、体の肉を焼いたペンチで引きちぎられ、傷口に熱した油や蝋が流し込まれました。そして両手両足を馬に繋がせ引っ張られ、八つ裂きにされた上で絶命しました。

といっても、人の体はそうは簡単にちぎれないものです。中々八つ裂きにならず、死ぬことも出来ないダミアン。最終的に体に切り込みを入れ、馬で引き裂き絶命したのですが、このあまりの出来事はシャルル=アンリに死刑の恐ろしさを思い知らせたことでしょう。

ハンサムでモテたシャルル=アンリ

話がだいぶ変わりますが。

現在残されている彼の肖像は年老いたものばかりですが、若いころは長身で体格も良く、ハンサムでおしゃれで・・・かなりモテていたようです。

意外にも女好きで、のちのルイ15世の晩年の寵妃デュ・バリー夫人とも遊んでいた過去がありました。(この時の彼女は、まだ街の針子に過ぎません)

普通死刑人と結婚したいという女性はいるはずもなく、処刑人仲間から縁組するところでしたが、シャルル=アンリはごく一般的な農家の娘マリー・アンヌ・ジュジエと1765年に結婚しています。

そんなシャルル=アンリのモテエピソードに、公爵夫人から訴えられた話があります。

パリ郊外のレストランで食事をしたところ、とある公爵夫人がシャルル=アンリを誘います。ダンディーで貴族と同じような身なりのシャルル=アンリに、夫人はすっかり魅了されて彼を誘惑しました。シャルル=アンリは食事だけをし、その場を離れましたが夫人は不満げ。そこへ夫人の知り合いが彼の正体を告げます。

卑しい処刑人が相手だったのかと知ると、夫人はショックと怒りに燃えます。そしてシャルル=アンリを高等法院に訴えたのです。

そして処刑人は直ぐにソレと分かるよう、印を衣服や馬車につけることなどを要求しました。

これに対し、シャルル=アンリは自身を弁護して長々と反論しました。

いくら蔑まれる職務といえども、国家による職務であることに違いありません。それを散々侮辱されてきたサンソンとしては、この機に言いたいことを言ってやろうと思ったのでしょう。結果的に、プロの弁護士を相手にしながらもシャルル=アンリは勝訴。これにはひとえに、あのグリゼル師の教えも盛り込まれていました。

これは、モテ男だからこそ起こった出来事といえるでしょう。

正式に死刑執行人になる

1778年、脳卒中で半身不随になっていた父バチストが亡くなり、息子であるシャルル=アンリが正式に死刑執行人「ムッシュー・ド・パリ」になります。

1767年と1769年には長男と次男も生まれており、この頃のシャルル=アンリはサンソン家の当主に相応しい人物になっていました。1789年4月には、ルイ16世に謁見するためにヴェルサイユ宮殿へ赴いています。ルイ16世による死刑執行人の正式な叙任状を交付してもらうためです。

キリスト教徒であり、敬虔な王党派であったシャルル=アンリ。まさかこの4年後に目の前の王をギロチンにかけるなど、思いもしなかったでしょう。

時代の流れを感じさせるものに、次の事件があります。

死刑囚解放事件

1788年8月3日、ヴェルサイユの聖ルイ広場でジャン=ルイ・ルシャールという男が車裂きの刑にかけられるところでした。

彼は王家御用達の蹄鉄工職人の息子であり、その罪は「父親殺し」でした。

彼の父マチュランは、一人息子のジャンを自慢の息子と思っていました。容姿に優れ、人が良く、名門校へ進み頭も良く、誰からも愛される息子が自慢できない親はいないでしょう。

しかし、時代の流れに敏感なこの息子ジャンは、当時フランスで流行っていた啓蒙思想・革命思想に目覚めて、古臭い親の考えを否定したのです。

親子の関係はたちまち崩れ、あろうことか父マチュランは息子の恋人に手をつけ、自分の嫁にしようと画策します。そうして口論となり、父が息子にハンマーを振り下ろしました。ジャンはかわしたものの、誤って父を死なせてしまったのです。

今で言えば正当防衛でしょう。ですが、我が父を死なせたことに違いありません。ジャンは潔く罰を受けるために、一切弁明せず処刑を受け入れたのです。

このような成り行きから、民衆の間ではジャンに同情的な雰囲気が寄せられました。

そして刑の執行の日、民衆はジャンを助けるために行動します。縛られたジャンを、群衆が救いだしたのです。用意していた道具は焼き払われ、その炎の周りで人々が救出劇を祝うようにダンスを始めたのです。

フランス革命が起こる、一年前のことでした。

フランス革命、国王の処刑

翌年1789年、フランス革命が勃発します。

この時シャルル=アンリは50歳。そしてこの頃に、罪人に必要以上の苦しみを与えないよう、人道的に命を断つための道具としてギロチンも準備されつつありました。

このフランス革命により、シャルル=アンリが敬愛する国王ルイ16世の処刑が決定されます。

今まで罪人を処刑してきたシャルル=アンリにとって、敬愛する王は断じて罪人ではありませんでした。逃げたくても被害が家族に及ぶかもしれないと思うと引けず、王党派が王を救出する噂を聞き、いざとなったら自分もそれに加勢しようと考えた程です。

しかし、そんな淡い期待は裏切られ、1793年1月21日にシャルル=アンリ・サンソンによってフランス国王ルイ16世はギロチンにかけられ処刑されました。

ギロチンによって処刑されるマリーアントワネット王妃
ギロチンによって処刑される
マリーアントワネット王妃
出典:Wikipedia

奇しくも、ギロチンの刃をより切れやすいものにするために「斜めの角度にするように」と言ったのは、他ならないルイ16世でした。

ルイ16世とは面識があり、彼の拷問廃止や死刑の減らす取り組みに賛同していたシャルル=アンリにとって、王を自分の責任によって死に至らしめたというのは、受け入れがたいものでした。

王亡き今、もはや彼が助けを求めるものは神しかいません。シャルル=アンリは大罪と知りつつ、ルイ16世のためにその後10年間ミサをあげ続けました。シャルル=アンリの死後は、息子のアンリに引き継がれ47年間もルイ16世のためにミサをあげつづけたそうです。

その後も革命派ら多くの死刑執行にシャルル=アンリ・サンソンは立ち会いました。「人道的」な道具であったはずのギロチンは、あっけなく簡単に人を処刑出来る皮肉な道具でもありました。このギロチンの誕生と革命期が重なり、シャルル=アンリは2000人以上処刑したと言われています。

昔の愛人、デュ・バリー夫人を処刑した時は、彼女があまりに泣き叫び命乞いをしたので「みんな彼女のように泣き叫べば、人々もことの重大さに気づき、恐怖政治も早く終わっていたのではないだろうか」と日記に書き記していたそうです。

フランス革命・恐怖政治の処刑時には幻覚や耳鳴り、体の震えが起こっていましたが、それでも辞めることは先祖を裏切る行為だとして、彼は処刑場に立ち続けました。

ルイ16世を処刑した2年後、彼は息子に代を譲り引退。11年後の1806年に、その生涯を生まれ育ったパリで終えたのです。

参考文献

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ABOUT ME
kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。