フランス

シャルル9世 虐殺の衝撃から死期を早めた若き王

フランス国王 シャルル9世

フランスの黒歴史といえば色々ありますが、今回は以前取り上げたサン・バルテルミの虐殺について触れたいと思います。そう、今回お話する人物はこの事件のショックで死亡したのではと言われるフランス国王、シャルル9世です。

悪女とも名高いカトリーヌ・ド・メディシスの次男であったシャルル9世。23歳という若さで亡くなった彼について、簡単ですがまとめていきます。

誕生と即位

シャルル9世(シャルル=マクシミリアン)は1550年、父アンリ2世と母カトリーヌ・ド・メディシスの次男として誕生しました。

兄にフランソワ2世がおり、兄同様体の弱かったシャルル9世。フランソワ2世がフランス国王として即位するも、その在位は僅か17ヶ月。兄の死により弟のシャルル9世が次のフランス国王として即位しました。

が、フランスでは国王の成人年齢は満13歳と決められていて、当時10歳だったシャルル9世は摂政をつける必要があったのです。

母カトリーヌ・ド・メディシス

カトリーヌ・ド・メディシス
出典:Wikipedia
カトリーヌ・ド・メディシス
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彼の摂政となったのは、実母のカトリーヌ・ド・メディシスでした。そしてこの時フランスはカトリックとプロテスタント(ユグノー)の宗教対立の真っ只中。一触触発の状況でピリピリしている状態です。

ここで登場するのが、ガスパール・ド・コリニー。彼はコリニー提督としてプロテスタント派の首領とも言える人物でした。

コリニー提督
出典:Wikipedia

宗教対立を乗り越え、融和し、王国の財政難を何とかしたいと考えていたカトリーヌとシャルル9世親子。宮廷ではカトリックのギーズ家が勢いづいていました。このギーズ家の親戚が先の国王(シャルルの兄)フランソワ2世の妻メアリー・スチュアートだったことから、その勢力を強めていたのです。

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ユグノーの首領コリニー提督と交友関係を築こうとした理由は、カトリック勢のギーズ家に対抗するためだったのかもしれません。

しかし、母カトリーヌには思わぬ誤算が生じます。素晴らしい指導者であったコリニーに、息子シャルル9世が傾倒していったのです。自分の父以上にコリニー提督を尊敬するようになった息子。何より心配だったのは彼がユグノーであったことでしょう。フランスはカトリックの国です。その国王が万が一にもユグノーへ改宗でもしたら・・・。

そしてコリニー提督は国王シャルルの信用を得て、ユグノー側が有利になるような説得も行っています。(1571~72年頃のネーデルランドの戦争介入は、母カトリーヌが阻止しています。)

この一件から、実権を握るカトリーヌにコリニーは疎まれるようになったのです。

コリニー暗殺未遂事件

そんな中、1572年シャルル9世の妹マルグリットと、ナバラ王アンリの結婚式が行われます。アンリはコリニー提督と同じユグノー陣営の盟主でした。この結婚式にはユグノーの貴族たちも集まり、若い二人の結婚を祝うためパリへ集結していたのです。

当然、その中にはコリニー提督の姿もありました。

フランスの中心、パリ。カトリックの中心部でもある場所へ、ユグノーが何百人とやってくる様子はパリ市民に不安を与えたようです。そして自分たちの国の王族が、敵対するユグノー(プロテスタント)と婚姻するなど不満でしかありませんでした。

そんな感情が入り乱れる中、8月22日シャルル9世が尊敬してやまないコリニー提督が暗殺されかける事件が起こります。指を切断する怪我を負ったコリニーに対し、シャルル9世は涙を流して犯人を見つけ罰する誓いを立てました。その横にいた母カトリーヌは無感情。

というよりも、コリニー暗殺未遂の首謀者はこのカトリーヌだと言われているのです。

サン・バルテルミの虐殺の衝撃

コリニー暗殺未遂の翌日、母カトリーヌは息子シャルル9世にことの重大さを諭します。ユグノーたちからも事件の真相を問だ出されていたシャルルは、ついに母の説得に折れてユグノー殺害を承諾します。「皆殺しにしろ」と発言したとありますが、これはコリニー含むユグノー全てではなく、リストアップされていた特定のユグノーのことを指していたとも言われています。

サン・バルテルミの虐殺
サン・バルテルミの虐殺
出典:Wikipedia

が、24日のサン・バルテルミの祝日にコリニー提督はついに殺害され、カトリックは狂気的にユグノーの貴族・民衆構わず虐殺していったのです。

この暴動はギーズ公アンリによるものとされていますが、シャルルの母カトリーヌも関わっていたとされています。そのため、カトリーヌ・ド・メディシスの大失態の一つに数えられて、彼女が悪女と言われる所以にも繋がっています。

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若き国王の死

虐殺の2年後、シャルル9世は23歳という若さで死去します。大量虐殺という事件に、少なからず関わった事実と、父のように尊敬し慕っていたコリニー提督を市に追いやってしまったショックが、元々病弱だった彼の死を早めたとも言われています。

シャルル9世には1572年に結婚したエリザベート・ドートリッシュという妻がおり、虐殺が起きた1572年に一人娘マリー・エリザベートが誕生していました。しかしその娘も5歳で亡くなり、未亡人になったエリザベートも
37歳でこの世を去っています。

このエリザベートは未亡人になった後、シャルル9世の弟アンリ3世との再婚話もあがっていましたが辞退していました。シャルルは愛人も構えていましたが、エリザベートとの夫婦仲も良好に保っていたそうです。夫を想って、再婚を断ったのかもしれませんね。

シャルル9世の死後は、彼の弟アンリ3世がフランス国王となります。そのアンリ3世も暗殺されてしまい、ヴァロア王朝は断絶します。

余談:エイプリルフールとシャルル9世

エイプリルフールの由来は諸説ありますが、フランスが発祥の説もあります。

1564年、シャルル9世が従来の3月25日(キリスト教の受胎告知)などを新年の始まりとするのではなく、1月1日を新年とする「ルシヨンの勅令」を出したことがきっかけでした。地方ではこの勅令が広まらず、変わらず3月や4月を新年として祝っていたそうです。

それをからかって、1月1日が新年だと知っている人が「3月(4月)新年おめでとう・・・なーんて嘘!1月1日が新年だよ」とメッセージをつけた贈り物をしたんだとか。

ちょうどこの記事を書いた翌日が4月1日(エイプリルフール)、だったのでシャルル9世を取り上げてみました。

新年号発表もあるので、たまには、こういう余談混じりのお話も良いかなと。暗い内容の締めの余談でした。

参考文献

ABOUT ME
kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。