こんばんわ、管理人kumanoです。今日は少し趣向を変えて、歴史を勉強中「カッコいいな」と思った女性を少しご紹介したいと思います。
もちろん、ここに掲載する女性以外にも素敵でカッコいい女性は多いです。そしてここで言う「カッコいい」は、姿形ではなく彼女らの「生き様」を指して表現しています。
歴史を調べるうちにまた「この人も紹介したい!」と思ったら追加していこうと思っています。
では、さっそく書いていきます。
マリア・テレジア
マリーアントワネットの母としても有名ですが、若くして継承戦争を乗り越え、国民に愛され、国母と言われた女性が、マリア・テレジアです。彼女の生い立ちについてはこちら。
父王が亡くなった時、彼女はまだ20代。しかもお腹に第四子もいて味方も少ない。それでも代々続いたハプスブルク家の断絶や、ローマ皇帝の地位を手放すまいとプロイセン相手に戦争をします。
プロイセンに奪われた領土シュレージエンは、最後まで帰ってきませんでしたが、諦めず二度も戦いを試みた彼女の意志の強さには脱帽します。
そして王族の恋愛結婚が珍しかった時代に、愛を貫いたマリアテレジアと夫フランツ1世の愛も素敵だなと思います。
統治の仕事や改革など忙しく立ち回っていた中、10人以上の子どもたちを立派に育てて「母」としての有能さも発揮します。(障害のあった娘たちには手厳しかったようですが。)
まさに「国母」と呼ぶのに相応しい女性が、マリア・テレジアだと思います。彼女はオーストリアの歴史を語る上で外せない存在ですし、今でも母国で愛され続けている女帝です。
フローレンス・ナイチンゲール
イタリア、フィレンツェで生まれたので「フローレンス」と名付けられた、イギリス人女性ナイチンゲール。
彼女の紹介はまだ出来ていませんが、歴史の授業で習ったこともあるでしょう。誰もが知っているクリミアの天使ですね。
彼女は裕福な家庭で生まれましたが、奉仕の心に目覚め30歳で看護師の資格を取得します。
当時の看護師といえば召使いも同然の扱いであったため、上流階級の女性が就く仕事とみなされていませんでした。当然のように、彼の家族は反対します。
しかし鉄の意志を持つ彼女は押しのけ、やがてクリミア戦争で傷ついた兵士たちを看護するため従軍します。
彼女の前に立ちはだかったのは、縦社会で成り立つ軍の世界。物資はろくに供給されておらず、不衛生な環境で、兵士たちは傷ではなく感染症などで死んでいく現状でした。
ナイチンゲールはすぐさま行動します。相手がどんな偉い人物だろうと、正しいと思うままに発言し、行動したのです。それを評価してビクトリア女王が彼女の進言を認めます。
死亡率が40%を超えていた現場は、最終的に5%にまで下がりました。ナイチンゲールのおかげで命拾いした兵士たちの眼に、彼女は本当の天使に見えたことでしょう。
その他に偉大な業績を残しながらも、彼女は表舞台に出ることを嫌がりました。当然のこと、自分の心のままに動いただけであり、英雄という広告塔になるつもりなど微塵もなかったのです。
そんな彼女は自分の墓石にもフルネームではなく、イニシャルだけを残すようにいったそうです。
名言も多く
「犠牲なき献身こそ真の奉仕」
「天使とは、美しい花を撒き散らす者ではなく、苦悩する者のために戦う者である」
などは、今でも人の心を打つ言葉だと思います。
ラクシュミー・バーイー
彼女の名前を知っている方は、かなりの歴史好きかもしれません。
1857年のインド大反乱が起こった際の女性の英雄が、ラクシュミー・バーイーです。
当時インドはイギリスに間接的に支配されて、インド人は不満を募らせていました。ラクシュミー・バーイーはジャーンシー王国の王妃でしたが、跡継ぎだった息子がすぐ亡くなってしまい、王も病死。対抗策も行使しましたが、結局イギリスに国を奪われてしまったのです。
その三年後に勃発したのが、インド大反乱でした。ラクシュミー・バーイーもイギリスに雇われていた兵士(シパーヒーという)と共に、憎いイギリスに対抗しました。
しかし、女子供も混じったジャーンシー王国の軍は、近代的な武器を装備するイギリス軍に負けてしまいます。ですが、この時は想像を絶する抗いを見せ、敵であるイギリス軍の指揮官は苦戦を強いられたといいます。
国の者が自分たちの独立のため、そして王妃のために戦っていたのです。
彼女は最終的に、狙撃されて戦死してしまいます。ですが敵将であるイギリス人は、彼女を丁重に敬意を評して荼毘に付したそうです。
自分の国のために命がけで戦った王妃、それがラクシュミー・バーイーだったのです。