フランス革命の三大指導者の1人、ジョルジュ・ダントン。マリーアントワネットやルイ16世、ロベスピエール、マラーなど、フランス革命では有名な名前が上がりますが、今回は豪快な男ダントンについて解説していきます。
生い立ち
ジョルジュ=ジャック・ダントンは1759年10月26日、シャンパンで有名なシャンパーニュ地方で生まれました。
検事をしていた父を3歳で亡くし、8年後に母が再婚。義父とも仲が良く、元気いっぱいの腕白坊主だったといいます。牛とじゃれ合って事故に遭い、鼻が潰れて上唇に傷跡が残ったというエピソードまであります。
また、天然痘にかかった際に残った痘痕(あばた)もあり、ダントンは残された絵画を見ても醜男と認知されています。
ですが、恰幅が良く豪快で、演説が抜群に上手かった彼は女性からモテたそうです。
苦しくも楽観的だった無名弁護士時代
ダントンは学生時代、頭は悪くなかったのですが怠惰的で、自由に過ごしていました。時には懲罰もあったのに学校の規則を破り、ルイ16世の即位聖別式を見に行ったりもしています。
そんなダントンは21歳の時にパリへ出てきます。
法律事務所に見習いとして入り、父と同じく法の職に就こうと勉強したのです。そしてランス大学法学部に進み、弁護士になりました。
といってもこの頃のダントンは無名で、なかなか客が付きません。のらりくらりとしながらも、1787年ダントンは幼馴染の女性アントワネット・ガブリエルと結婚します。
同年には王室顧問会議の資格と弁護士事務所を、6万リーヴル(今の価値にして600万円)という超高額金を支払って買い付けます。このお金は義父から借りたり、過去の資産家の女性(元愛人)らから集めたものです。
借金したり女癖が悪かったりしたダントンですが、愛妻家とも知られていて、夫婦仲はとても円満でした。妻が亡くなった時は、墓から遺体を掘り起こしデスマスクを取って銅像にした程です。またこのガブリエルの遺言で「再婚するように」というものがあり、ダントンは最愛の妻を失って錯乱状態になったものの、妻の死後4ヶ月目にガブリエルの知人の娘と再婚しています。
フランス革命に参加

1789年に勃発したフランス革命。革命の熱気に包まれて、ダントンも身を投じていきます。

元々気前が良く、町の人気者だったダントンは最初こそ下町の活動家でしたが、1792年8月10日の王政倒壊してからジロンド派の内閣司法大臣として抜擢されます。これには、ロベスピエールらと共に民衆を演説で奮い立たせ、テュイルリー宮殿を襲撃させたことが絡んでいます。
この襲撃は「8月10日事件」とも呼ばれていますが、要約すると市民と軍が宮殿を襲撃し、国王一家をタンプル塔に幽閉したものです。王政倒壊のきっかけとも言える事件でした。この事件の計画は、ダントンが立てた筋書き通りに進んだのです。そしてダントン本人も「私が事件を準備した」と語っています。
これにより、ダントンは一躍革命の中心に立ったのです。
不恰好ながらも革命への情熱は人一倍高かった
ダントンは他のロベスピエールらの様に字を書かなかったと言います。演説する際も原稿を持たないで話すのがダントン流。もちろん不恰好にまごつくこともあったそうですが、それを払拭する程、彼の熱意ある弁舌は素晴らしかったそうです。
特に彼を有名にしたのが、対戦中のプロシア軍がパリに攻め込もうとして人々が戦々恐々としていた時に行った演説で、「諸君、敵を打ち破るには、我々には果敢さが必要だ。さらなる果敢さが、常に果敢さが。そうすれば、フランスは救われる」というものです。
この言葉に民衆は情熱を取り戻します。そしてヴァルミーの勝利にも繋がったと言われています。
ただ、女性好きでご馳走が大好きで、お金を積まれたら「うん」と言いかねない部分があり、そこをジロンド派に追求されることもありました。しかし、ダントンのこういった行動は私利私欲ではなく、人間味ある行動とも見なされてさらに魅力的に映ったようです。
ジロンド派から追放され、ダントン派(寛容派)を結成
上記の名演説を行った当日、フランス革命で暗い部分である「九月虐殺」が起きます。
そして「ダントンがこの事件に関わっている」という噂が出てしまいます。言いがかりでしたが、悪ぶってしまう癖がダントンにあり、これがジロンド派から嫌悪されてしまうのです。特に、ロラン夫人からは軽蔑されたといいます。
その後も、国民国会議員に当選し、国王の処刑に賛成します。とは言ってもダントン的には「王政は廃止するべきだが、ルイ16世の死は必要ではない」と考えていたようです。渋々の投票だったのです。
ジロンド派との対立は続き、1793年3月によく話をしていた将軍シャルル・フランソワ・デュムーリエが祖国を裏切って外国へ逃亡。当然関係性を疑われたダントンは窮地に陥り、公安委員を辞任せざえるをえなくなります。
事実上ジロンド派を追い出されたダントンは、これ以降ダントン派を形成します。時代は恐怖政治の真っ只中。元々ダントンは王の処刑に反対していましたし、王妃マリーアントワネットの処刑も望んでいませんでした。
王妃を助ける側に回り、更に恐怖政治に批判的な行動を行うようになります。恐怖政治の行き過ぎや、無意味な処刑にうんざりしていたのです。
このことから、ダントン派は寛容派とも呼ばれるようになります。
ですが、政敵になっていたかつての盟友ロベスピエールらに、厄介者として映ったのは事実です。
逮捕と処刑
ロベスピエールの政敵はエーベル派もそのひとつでした。1794年3月下旬にダントンはエーベル派の逮捕と処刑に協力したものの、4月上旬に、今度は自分たちが狙われてしまうのです。
ロベスピエールの右腕サン=ジェストからの告発で、ダントンや相棒ジャーナリストのカミーユ・デムーランらが逮捕されます。
逮捕後の裁判でもダントンは無実を訴えましたが、公安委員会からストップがかかり、まともな裁判を受けることなく、逮捕されたダントン派全員の死刑が下されました。

出典:Wikipedia
革命政府に楯突くエベール派とダントン派を排除したロベスピエールでしたが、今まで共に戦ってきた同胞でもあった政敵を両断したことで、その足元はぐらついていました。
それを見越して、ダントンは処刑場に向かう馬車からロベスピエールに「前も俺の後に続くことになる」と叫んでいます。
また、死刑執行人であるサンソンに、「みんなに俺の首を見せてやるがよかろう。それだけの価値はあるからな」と最期の言葉を残して人生を終えました。
こうして革命の雄は葬られましたが、彼の人間味溢れる性格や行動、功績は語り継がれて銅像やダントンの名前を冠した道も出来ました。ロベスピエールよりもマラーよりも、彼は親しみやすい英雄だったといえそうです。

ジョルジュ・ダントン年表
1759年10月26日 | 0歳 |
フランス・シャンパーニュ地方で誕生 |
1780年 |
21歳 |
パリへ出てくる |
1787年 | 28歳 |
アントワネット・ガブリエルと結婚 |
1792年8月 | 32歳 |
ジロンド派の司法大臣に就任 |
1792年9月2日 | 32歳 |
九月虐殺 |
1793年2月 | 33歳 |
出張中に妻ガブリエルが病死 |
1793年 | 34歳 |
ダントン派(寛容派)結成 |
1794年4月5日 | 34歳 |
パリで処刑 |
※月日が不明なものは満年齢で計算しています。
参考文献
- フランス革命の志士たち 安達正勝(著)
- 図解雑学 フランス革命 安達正勝(著)
- フランス革命の肖像 佐藤賢一(著)