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エリザベス1世 生涯独身を貫き、「国家と結婚した」の名言を残した処女王

イングランド女王エリザベス1世 イギリス 歴史 人物

誰もが一度くらいはその名前を聞いたことがあるだろう有名な女王、エリザベス1世。2002年にBBCが歴史上最も偉大な英国人を発表した中でも、エリザベス1世はTOP10入りしています。

今回はそんな「処女王」エリザベス1世についてまとめていきます。

生い立ち

ヘンリー8世とアン・ブーリン
ヘンリー8世とアン・ブーリン
出典:Wikipedia

エリザベス1世は1533年、イングランド王ヘンリー8世と、その二番目の妃アン・ブーリンの娘として誕生しました。

しかし、彼女が2歳の時に母アン・ブーリンは濡れ衣を着せられて斬首されてしまいます。その後父であるヘンリー8世がジェーン・シーモア再々婚し、異母姉メアリーと共に庶子という身分に落とされてしまいます。

後妻のジェーン・シーモアはメアリーやエリザベスの面倒をよく見て、ヘンリー8世と娘たちの仲も取り持ったそう。

が、そのシーモアは待望の男子エドワードを出産するものの、産後の回復が悪く亡くなってしまいます。

その後も父ヘンリー8世は結婚を続け、6番目の妃キャサリン・パーと1543年に結婚します。エリザベスは家庭的で優しい彼女にとてもよく懐いたといいます。(ヘンリー8世の6人の妃たちについてはこちらの記事をご参照ください)

初めての母らしい存在に彼女は甘えます。キャサリンも、メアリー、エリザベス、エドワードを可愛がり、また一家の幸せを願って尽くします。

庶子とされたメアリーとエリザベスでしたが、キャサリンのお陰で王位継承権が復活しています。

トマス・シーモアとのスキャンダル

ヘンリー8世の6番目の妃 キャサリン・パー
ヘンリー8世の6番目の妃 キャサリン・パー 出典:Wikipedia

エリザベスにとって、母のように慕っていたキャサリン・パーでしたが、ヘンリー8世が亡くなると、キャサリンは周囲の反対を押し切って再婚します。

相手は、ヘンリー8世と結婚する前から恋人関係にあったトマス・シーモアという男性でした。

エリザベスはこのキャサリン夫妻に引き取られ、チェルシー邸宅で育てられます。この頃エリザベスは14歳というお年頃。

あろうことかトマス・シーモアは20歳以上年下のエリザエスに近づき、恋人のように振る舞うようになったといいます。エリザベスも悪ふざけで付き合っていましたが、やがて敬愛するキャサリンに関係が露見し、エリザベスは流石に追い出されてしまいました。(これにはキャサリンも仕方なかったようです。)

それでも、エリザベスとキャサリンの親睦は、キャサリンが1548年に産褥死するまで続いたのです。

姉メアリーの即位

母の違う姉妹の仲は、王位継承問題も合わさって、良好ではありませんでした。

父ヘンリー8世の死後は、唯一の王太子エドワードが継ぎましたが、体の弱かった弟エドワードは1553年に15歳で夭折してしまいます。

メアリー1世 イングランド女王
メアリー1世 出典:Wikipedia

そのため、姉メアリーがイングランドの女王となります。メアリーは熱烈なカトリック教徒で、エリザベスはキャサリンの影響もあってか対立するプロテスタントでした。

表向きは姉に従順であったエリザベスですが、周囲は姉メアリーのカトリックへの姿勢に不満を覚えます。特にメアリーがスペインのフェリペと結婚を決めた時は、ワイアットの乱という反乱が起こった程です。

エリザベスもこれに加担したと思われて、一時ロンドン塔に収監されます。結局証拠不十分で彼女は釈放され、オクスフォード州のウッドストックの粗末な屋敷に1年程幽閉されたのです。

エリザベスがハットフィールドの宮殿に戻ってこれたのは1555年後半。メアリーはエリザベスを警戒しつつも、姉妹として私的な交流を持つこともあったそうです。

エリザベス1世として即位

1558年11月、わずか5年の在位で姉メアリーが病死します。夫フェリペとの間に子供は生まれず、メアリーは次の王位継承者としてエリザベスを指名しました。

こうして、姉メアリーにより巻き起こっていたカトリック旋風は止み、イングランドにプロテスタントの女王エリザベス1世が25歳で即位したのです。

失政続きだったメアリーに対して、エリザベスは民衆から歓喜の声で迎えられます。

エリザベスは周りに有能な側近達を構えます。その1人がロバート・ダドリーです。彼はエリザベスの幼馴染であり、愛人関係にあったと言われています。ダドリーはエドワード統治時に権力を握っていたノーサンバランド公の息子でもあります。

その他では、ウィリアム・セシル(のちにバーリ卿)を国務卿に任命しています。彼もヘンリー8世治世から若くして宮殿にいて、エリザベスの時代でもその手腕を振るっていきました。

宗教改革

イングランドのテューダー朝では、ヘンリー8世がカトリック、次のエドワードがプロテスタント、そして先代の女王メアリーがカトリックと、宗教改革が何度か行われてきました。

なるべく両者を刺激しないよう、エリザベスは中庸な立ち位置で宗教の問題に立ち向かいます。

また、先代メアリーが「ブラッディメアリー」と言われたように、反対者への迫害をさせないために異端排斥法を廃止しています。(今まで自分も迫害の対象だったからかもしれません。)

こうして宗教的争いから国を守るために苦心し、新旧両派の過激派を廃して中庸的な改革を行ったのです。

メアリー・スチュアートの処刑

女王となったエリザベス1世には、宗教の他にもうひとつ気がかりなことがありました。

それは自分の王位を脅かす存在メアリー・スチュアートでした。

メアリー・スチュアート スペイン イングランド 歴史上の人物
メアリー・スチュアート
出典:Wikipedia

メアリー・スチュアートはヘンリー7世の直系の子孫で、正当な王位継承者として一部から支持されていました。エリザベスとは文通のみしていて、お互いに「お姉様」「我が妹」と呼び合う関係でしたが、顔を合わせることは一度も無かったと言います。

メアリーはフランスの王太子フランソワと結婚するために、フランスで育ちます。ヨーロッパ一の洗練された宮廷で、美しく育ったメアリー。それに対し、田舎臭さが抜けなかったイングランドのエリザベス。

王位の問題と、嫉妬の問題もあったでしょう。

メアリーはメアリーで、「庶子」とされたエリザベスが女王になるなんておかしい。自分こそ正当な王位継承者だと言わんばかりに、イングランド王位継承権者の紋章を作りエリザベスを激怒させています。

「お姉様」と言いながらも、どこかでエリザベスを田舎娘だと小馬鹿にしていたのかもしれません。

しかし、そんなメアリーの華やかなフランス生活・立場は崩れ去ります。メアリーの夫、フランソワが夭折してしまったのです。姑であったカトリーヌ・ド・メディシスとの不仲もあり、メアリーは祖国へ返されます。そして祖国でもフランスでの優美な生活や視線を忘れられず、お高くとまった生活をし、結局退位に追い込まれイングランドへ亡命。

エリザベスからすれば、今まで散々自分を小馬鹿にしてきたメアリーが、恥じ入ることもなく自分の前にやってきたのです。イングランドはやっと改革が進み、穏やかになったところへ、王位継承を揺るがす爆弾が転がり込んできたようなもの。エリザベス1世は困惑しつつも、それでも彼女に「隣国の女王」としての待遇を許します。

しかし周りから、早くメアリーを処刑すべきだと意見が上がります。そして実際にメアリーを真の女王だと支持する一部の人間が、反乱を起こそうとしていたのです。

こうしてメアリー・スチュアートは1587年2月8日に、陰謀の疑いをかけられて処刑されました。(エリザベス自体はメアリーの斬首については悩んでいたらしく、周りが急いで行ったようです。そのため「急ぎすぎです!」と、死刑を実行した者たちを叱りつけたそう。)

兎にも角にも、目の上のコブであり、自分の王位を揺るがすメアリーは露と消えていったのです。

晩年

イングランド女王エリザベス1世 イギリス 歴史 人物
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スペインの無敵艦隊を撃退したアルマダ海戦など、彼女の統治した時代は「黄金時代」とも呼ばれています。そんな彼女も、晩年には相次ぐ不幸に気が滅入り、うつ病を患って1603年3月24日に死去しました。

王位は、先程述べたあのライバル、メアリー・スチュアートの息子ジェイムズでした。彼を後継者に指名し、跡継ぎを残すことがなかった処女王エリザベス1世の崩御と共に、テューダー朝は幕を引いたのです。

参考文献

[affi id=14]

  • 中野京子(著)『残酷な王と悲しみの王妃』集英社 2010

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  • 加藤 雅彦 (著) 『図解ヨーロッパの王朝(ふくろうの本)』河出書房新社 2016

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  • 水井万里子(著)『図解テューダー朝の歴史』 河出書房新社 2011
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歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。