イギリスの大航海時代を代表する英雄、フランシス・ドレイク。イングランド人として初の世界一周を成し遂げた大海賊としても名高い彼についてまとめていきます。
生い立ち
フランシス・ドレイクは1543年、イギリス南西部デヴォンで12人兄弟の長男として誕生しました。
やがて一家はプリマスという場所へ移り住み、ドレイクは10歳の頃には海に出るようになっていたそうです。実はこのプリマスには親戚のホーキンズ一家もいました。このジョン・ホーキンズはドレイクの従兄にあたります。
この2人はプロテスタント信仰を持っていたことから、イングランド女王メアリー(血塗れのメアリーと呼ばれる程、カトリックに傾倒していた女王)統治の際は、海での仕事に専念していました。
スペイン海軍との衝突

出典:Wikipedia
25歳で自分の船を持ち、船長となったドレイク。依然ジョン・ホーキンズとの繋がりで、彼の船団に参加して奴隷貿易を行なっていました。
ところが1567年、ホーキンズの第3回航海へ向かった時です。
「ジェサ・オブ・リューベック」という船を旗艦として6隻の船が出港しましたが、メキシコでスペイン艦隊に遭遇。奇襲を受けた一団はほぼ壊滅してしまいます。
ドレイクは命からがらイギリスまで逃げ延びますが、仲間を見捨てたと言われ、暫くはホーキンズと揉めたようです。(その後和解したのか、その後も2人の関係は続きます)
のちにスペインの無敵艦隊を撃破するフランシス・ドレイクですが、この事件がスペインに対して強い復讐心を芽生えさせたのは言うまでもありません。
女王公認の海賊へ
1570年、新たに船を調達したドレイクは、スペイン船を狙った私掠船(しりゃくせん:交戦国の船を攻略して財を奪う許可を得た、個人所有の武装船のこと。)の船長として活動します。
私掠船の許可は、元々ジョンの父がヘンリー8世の治世から公認の海賊として認められていたため、得ることが出来ていました。
ジョンとドレイクは、スペイン領とヨーロッパを結ぶルートを往来する船を襲い、時にはスペインの植民地だった西インド諸島周辺でも海賊行為を行っていました。
イングランド人初の世界一周へ
この海賊行為で得た財で、1577年12月にゴールデン・ハインド号を主とした5隻の艦隊で、プリマスから世界周航の航海へ出ます。
途中でもスペイン戦艦を戦いながら、太平洋を横断。1578年にマゼラン海峡を通過して、1580年9月26日にイギリスに帰国します。5隻あった船で、無事に戻ってきたのはゴールデン・ハインド号だけでした。
2年9ヶ月の航海で、新大陸のスペイン領を荒らして周った海賊旅行でした。
帰国したドレイクは出資者であるエリザベス1世に、30万ポンドとも言われる巨額の分配金を渡します。この金額は当時の国家予算以上とも言われているので、海賊行為で得た財の莫大さを感じ取れます。
この功績でフランシス・ドレイクは女王からナイトの叙任を受けてサーの称号を得ます。
英雄となった大海賊
その後もドレイクは船を出します。1587年にはカディス遠征。1588年にはイギリス艦隊の副司令官として、アルマダの海戦でスペイン艦隊と相対します。
本来ならば司令官として出撃したかったようですが、司令官には名門貴族の海軍長官チャールズ・ハワードが就きます。
単独行動が得意で、しかも海賊行動のクセが抜けなかったドレイクは、何度か仲間と揉めていたようです。それでも「海賊らしい戦い」として、カレー沖の戦いでは火のついた船を敵艦隊にぶつけるという、豪快な手段で無敵艦隊と呼ばれたスペイン艦隊を撃破します。
国内では敵を打ち破った英雄として名高いフランシス・ドレイク。反対に、敵スペイン側からすると悪魔の象徴である「エル・ドラコ」と呼ばれて恐れられていました。
晩年
50代になっても彼の航海は続きました。
しかし1595年8月29日、パナマ占領計画で出航していたジョン・ホーキンズとドレイクでしたが、プエルトリコ島のサン・ファンに近づいた頃、ホーキンズが赤痢により63歳で死亡します。
この時サン・ファンではスペイン軍が待ち受けており、激しい砲撃戦の末ドレイクは諦めて退却します。
そして1596年1月28日、ホーキンズと同じ赤痢に襲われてフランシス・ドレイクは死去しました。遺体は棺に入れられ、海中に葬られたそうです。
参考文献
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- エディング(編)『世界とつながる イギリス断片図鑑 歴史は細部に宿る』株式会社自由国民社 2018
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- 水井万里子(著)『図解テューダー朝の歴史』 河出書房新社 2011
[affi id=17]
- 海野弘(著)『海賊の文化史』朝日新聞出版 2018