マリア・テレジアの最大のライバルと言っても過言ではな人物。プロイセン王であり軍人王とも称されたフリードリヒ2世についてまとめていきます。
生い立ち
1712年1月24日、フリードリヒ2世はフリードリヒ・ヴィルヘルム1世と王妃ゾフィー・ドロテアの息子としてプロイセン(ドイツ)で誕生しました。
「軍隊王」と呼ばれた父王は軍国的絶対主義を貫き、芸術を理解しない人でしたが、母ゾフィーは洗練された宮廷人でした。
そんな二人の元で、フリードリヒ2世は母のように芸術を愛しながらも、父の厳しい目や体罰に恐怖しながら育ったのです。
父に従いエリーザベトと結婚
フリードリヒ2世は1733年6月12日、父の言うままにオーストリア元帥の娘、エリーザベト・クリスティーネと結婚します。
この際ハプスブルク家のマリア・テレジアとの婚約の話もありましたが、フリードリヒが改宗する気がなかったため取り消しになっていました。
もしここで結婚していたら、先のオーストリア継承戦争はなかったでしょう。
さて、結婚したエリーザベトは美しく、善良で信仰心のあつい女性でした。夫であるフリードリヒ2世にも献身的だったそうですが、フリードリヒが彼女に振り向くことはありませんでした。
エリーザベトとの結婚の前、イギリス王女との縁談が挙がった時に逃亡を測ったほどです。よほど結婚が嫌だったのでしょう。しかもこの逃亡の際、逃亡の手助けをした親友の近衛騎兵カッテはフリードリヒの目の前で処刑されています。
フリードリヒの女性嫌いを表す出来事でもあるかもしれません。
フリードリヒ2世即位
1740年、恐ろしかった父フリードリヒ・ヴィルヘルム1世が崩御します。フリードリヒ2世として彼は28歳の時即位しました。
啓蒙主義者であったフリードリヒ2世は、即位後すぐ改革に取り組みます。
そして同年、あのマリア・テレジアがハプスブルク家を継承します。フリードリヒ2世はそれを許さず、オーストリア相手に戦争をしかけました。
オーストリア継承戦争と七年戦争
フリードリヒ2世は異論を唱え、シュレージエン三公領を要求します。マリアテレジアがこれを拒否したことで、彼はすぐさま4万の大軍を率いてシュレージエンに侵攻しました。
他のザクセンとフランスもこれに乗じて軍事介入してきたことで、オーストリア継承戦争へと繋がっていったのです。
オーストリア継承戦争と七年戦争についてはマリア・テレジア記事でまとめています。
啓蒙専制君主として
シュレージエン強奪の他、フリードリヒ2世は拷問の廃止、宗教寛容令の公布、主要食品への間接税の廃止など、様々な改革を打ち出し、相次ぐ戦争での財政難を乗り越えました。
そしてその後も富国強兵を目指し、工業の保護・国営化・ジャガイモ栽培の奨励などを行います。
この啓蒙主義に基づいた改革で、彼は啓蒙専制君主の模範的人物と評されています。彼を「大王」と呼ぶのも、これを賞賛してのことです。
あのドイツのヒトラーも彼を尊敬し、フリードリヒ2世の絵を部屋に飾っていた程です。
こうしてフリードリヒ2世は、プロイセンを近代化へ導き、大国へと成長させていきました。
晩年
しかし、家庭的には妻であるエリーザベト・クリスティーネとは別居しており、子供を授かることはありませんでした。
エリーザベトは敬虔で控えめな女性だったため、夫に相手にされない事も甘んじて受けていました。そしてフリードリヒ2世が1786年8月17日に老衰で崩御すると、誰よりも彼の死を悲しんだといいます。
晩年の彼は孤独で、唯一の心の拠り所は愛犬のみだったといいます。
おまけ
フリードリヒ2世の女性嫌いは凄まじく、久しぶりにあった妻にも「マダムは少し太られたようだ」など失礼な発言をしたり、フランスのポンパドゥール夫人に対しても、自分の飼い犬に彼女の名前をあてがうなど、かなりの嫌いようが伺えます。
こうしたことから、ロシアのエカチェリーナ1世・ポンパドゥール夫人・マリアテレジアに嫌われ、三者の結んだ作戦(3枚のペチコート作戦)につながったのだと思うと、かなり面白いですね。