これまでヘンリー8世にまつわる人物をまとめてきましたが、今回はそのヘンリー8世の6人の妃たち。離婚、処刑、再婚、彼女ら王妃の比較などまとめていきます。
第1の妃:アラゴン家のキャサリン

キャサリンはスペインのアラゴン王フェルナンド2世とカスティリヤ女王イザベラの第4王女として誕生します。そして彼女が3歳の時には、ヘンリー8世の兄・アーサーの婚約者となっていました。
ただ、1501年に結婚するもアーサーはわずか半年足らず、15歳の若さで死去。
元々アーサーとヘンリーの父、ヘンリー7世が「我が息子は正当な後継者」というのを世間に知らしめるために、苦労して強国スペイン王国から迎えた妃がキャサリンでした。
ヘンリー7世は努力の末手にしたスペイン王家との婚姻関係を維持するためにも、次男のヘンリーに彼女をあてがったのです。そして、ヘンリー8世が即位した直後に2人は結婚します。
(ただ、この頃ヘンリー7世の妃エリザベスが産褥死していたため、ヘンリー7世の後妻としてキャサリンを迎えようとしていたそうです。失礼極まりないとして、スペイン側が激怒したため白紙にされたようですが。)
さて、結婚当初ヘンリーとキャサリンの夫婦仲は良かったようですが、なかなか世継ぎに恵まれません。ようやっと生まれたのが、メアリー王女でした。
しかしその後も男子を授かることもなく、次第にヘンリー8世の愛は愛人のアン・ブーリンへと移っていってしまったのです。最終的にヘンリー8世はトマス・クランマの法廷で離婚が認められ、アン・ブーリンと再婚。キャサリンは軟禁状態の身となってしまいます。
第2の妃:アン・ブーリン

出典:Wikipedia
アンは元々キャサリンの侍女として姉と一緒に仕えていた女性です。姉妹はフランス宮廷の華やかな文化を吸収してイングランドに戻ってきた経緯があり、他の女性らとは違って見えたのでしょう。
最初はアンの姉メアリ・ブーリンがヘンリー8世の愛人になっていましたが、アンへ鞍替え。最初愛人になるのを渋っていたアンでしたが、「王妃になるなら考える」とヘンリーに持ちかけます。
そこでキャサリンとの離婚問題に発展したのです。
国民からの人気が高かったキャサリンとの離婚は、国内部からも反対が上がりましたが、ヘンリーは断行。教皇庁からも破門されてしまいますが、1533年5月にアン・ブーリンを正式な妃として迎え入れます。
ちなみに、このキャサリンとの離婚に反対したトマス・モアは処刑されています。
1533年9月に、アンはエリザベスを出産しました。離婚問題中に妊娠していたアンが生んだのは、またしても女子。ヘンリー8世は落胆します。
ヘンリー8世の落胆は続き、強気の性格だったアンは、先の妃キャサリンの娘メアリーを自分の娘の侍女として扱おうとしたのです。おまけに宝石や衣装などの贅沢を好み、ヘンリー8世の側近トマス・クロムウェルとも不仲に。さらには政治にも口出しするようになります。これが、ヘンリー8世から愛想を尽かされる要因となっていったのです。
アンは男子を身籠もるも流産。先の妃キャサリンが亡くなった時ヘンリー8世とダンスを楽しんだそうですが、この頃に流産したと言われています。
愛情が薄れたヘンリー8は、今度はアンの侍女ジェーン・シーモアに心移りしていきました。
そして結婚から2年後、アンは反逆罪の汚名を着せられて1536年5月19日、ロンドン塔にて斬首に処せられて最期を迎えました。この反逆罪は濡れ衣であった疑いが高いです。
ちなみに、当時のイングランドの斬首刑は斧で行われるのが通常ですが、アンの場合は本人の希望でわざわざフランスから処刑人を呼び寄せて、刀剣で斬首となったそうです。
フランスで過ごした経験があったから…かもしれません。
第3の妃:ジェーン・シーモア

ヘンリー8世が愛したとも言われるジェーン・シーモア。彼女はキャサリンとアンの侍女をしていた女性です。美女というわけではなかったのですが、控えめで物静かな様子がアン・ブーリンとは違っていました。また王と同じカトリック信徒だったこと、周りが彼女と王の仲を取り持ったことから関係は進んだようです。(ヘンリー8世と彼女は幼馴染だったらしいです。)
アン・ブーリンの処刑後、ジェーン・シーモアはヘンリー8世の三番目の王妃として結婚。1537年10月12日に待望の男子エドワードを出産します。
しかし難産だったことで体力が回復せず、ジェーンはそのまま10月24日に亡くなります。
ちなみにジェーンには兄が2人おり、ジェーンの結婚と出産は彼らの出世にもつながっていました。シーモア家の勃興に貢献した女性となったのです。
唯一男子を生んだ彼女は、6人の王妃の中でただ1人だけ、ウィンザー城内の王室霊廟で王の隣で眠ることが許されています。最も、キャサリンとは離婚、アンとキャサリン・ハワードは処刑。他の王妃たちは生存していたことから、ジェーンしかいなかったと考えられます。
第4の妃:クレーヴズのアン

ヘンリー8世の4番目の妃で、ドイツのプロテスタントとの連携を模索していたトマス・クロムウェルの考えで迎えられた女性です。
ところが、当初彼女の肖像画を見て結婚を決めたヘンリー8世でしたが、実際に会ってみるとアンはそこまで美しい女性ではなかったのです。(画家が実際より美しく描いていたため)
ただ一度決めた以上結婚を回避することは出来ず、2人は1540年に結婚。その半年後に理由をつけて離婚しています。
しかも、2人を結びつけようとしたトマス・クロムウェルはヘンリーに激怒されて失脚。最終的にロンドン塔で斬首刑になってしまいました。もといこの騒動には彼の失脚を目論む保守派の暗躍があったことは間違いありません。
アンは離婚後「王の妹」という称号と城を与えられて、彼女は6人の妻の中で最も長く存命することができたのです。性格も穏やかだったのかは分かりませんが、宗教にそこまで肩入れしている様子がなく、ころころと改宗しています。気難しいメアリーとも、宗教が違っていたにも関わらず良好な関係を築いていたそうです。
第5の妃:キャサリン・ハワード

次の妃に選ばれたのは、クレーヴズのアンの侍女キャサリン・ハワードでした。
彼女はノーフォーク公ハワード家の血筋の女性で、アン・ブーリンとは従姉妹です。ただし、名門ハワード家といっても周辺(末端)の家だったため、令嬢の生い立ちや教養はあまりなかったようです。結婚当時1540年はまだ20歳。それが50歳に近い王と結婚しなければならなくなったのです。
教養不足やメアリーとの不仲等もあり、また王の関心が薄れてゆきます。
結婚する前に付き合っていた男性との密会が露見して、姦通罪により1542年2月2日に処刑されてしまいました。アン・ブーリンの反逆罪や姦通罪は濡れ衣でしたが、キャサリン・ハワードは黒だった見方が有力です。
第6の妃:キャサリン・パー

出典:Wikipedia
最後、6番目の妃になったのがキャサリン・パーです。彼女の父は貴族ではなかったものの、エドワード3世の血統にあたる人物で、州長官も勤める重鎮でした。
実はこのキャサリンは未亡人で、17歳の時に結婚。数年で死別。翌年に倍以上年の離れた貴族と再婚するも、1543年にその夫も死亡してしまいます。
彼女の母がキャサリン・オブ・アラゴン(ヘンリー8世の最初の妃)に仕えていたことから、メアリーと関わるようになります。そこでヘンリー8世に見初められます。彼女の教養の高さに惹かれたようです。
実はこの頃にはジェーン・シーモア(ヘンリー8世の3番目の妃)の次兄トマス・シーモアと交際を始めていました。50代になっていたヘンリー8世は、この邪魔者を追い出して彼女に求婚します。
前の王妃たちの辿った道を考えた時、彼女は悩みましたが結局求婚を受け入れ1543年7月にヘンリー8世と結婚します。
メアリー1世の記事でも書きましたが、彼女は教養高く優しい女性で、散り散りになっていた国王一家の関係の修復に心を砕きます。メアリーにとっては、彼女の母は自分の母に仕えた人。高い教養を兼ね備えた信頼出来る女性でした。エリザベスにしても、初めての「母らしい母」と呼べる女性で、大変懐いたと言います。エドワードも当然、彼女を慕いました。
キャサリン・パーはプロテスタント信者で、のちのエドワードの政治がプロテスタントみを帯びていたのも、彼女の影響があったのかもしれません。
肝心の世継ぎは生まれなかったものの、ヘンリー8世自身も彼女を良きパートナーと認めていました。自分が不在の時には、王に代わり摂政を任せた程です。
1547年1月28日にヘンリー8世が55歳で崩御すると、以前の交際相手だったトマス・シーモアと再婚します。ヘンリー8世の遺言から、この先豊かに暮らせるだけの財を与えられたにも関わらず、宮廷を出たキャサリン・パーはエリザベスを引き取り、一緒に暮らします。
富を得た彼女に、経済的な理由で結婚する必要はありません。やはり、そこにはトマスへの愛があったのでしょう。
しかし、夫トマスはエリザベスとスキャンダラスを起こしてしまいます。この時、キャサリン・パーは初めて妊娠していたのだから、醜悪な話です。エリザベスは彼女の元を離れざるを得なくなりました。
母として慕っていたキャサリン・パーとの別れは永遠のものでした。なぜならば1548年8月30日、キャサリンはついに娘を出産します。しかし、数日後の9月5日に産褥熱でこの世を去ってしまったのです。36歳でした。
参考文献
[affi id=2]
- 指昭博(編)『ヘンリ8世の迷宮ーイギリスのルネサンス君主』昭和堂 2012
[affi id=3]
- 宮崎正勝 (著) 『ビジュアル世界史1000人下巻』
- 指 昭博 (著) 『 図解イギリスの歴史(ふくろうの本)』
- 石井 美樹子(著) 『ビジュアル選書 イギリス王室1000年史』
- 水井万里子(著)『図解テューダー朝の歴史』 河出書房新社 2011
※ヘンリの妻クレーフェのアンとキャサリン・ハワードの写真が逆になっている間違いあり。