イギリス

ヘンリー8世 6人の妻を娶り宗教革命を行ったイングランド王

ヘンリー8世 イングランド王

ガタイの良い、ちょっと肥えた姿が印象的なテューダー朝第2代のイングランド王。そして何より特出すべきは彼の結婚歴とその妻達。今回は跡継ぎ問題に悩まされたヘンリー8世についてまとめていきます。

彼の6人の妃についてまとめた記事はこちら

生い立ち

ヘンリー8世はヘンリー7世とエリザベス王妃の次男として誕生しました。次男ということで、イングランド王になる予定だったのは当初、ヘンリーの兄アーサーでした。

そのため、レベルの高い勉強を受けて教養は高かったものの、あまり幼少期の彼については語られていません。

ところがこの兄アーサーは生まれつき病弱で、両親が王としての威厳と血統を手に入れるために苦心した結婚相手、キャサリン・オブ・アラゴン(強国といわれたスペイン王国の王女)と結婚するものの、半年足らずで病死していまいます。わずか15歳でした。

ヘンリー8世の即位

テューダー朝の開祖であり父であったヘンリー7世。

父が築いた富や財政・政治基盤を、兄亡き後受け継ぎ、1509年に即位したのが弟のヘンリー8世でした。 先代が築き上げたものを、二代目が潰すというのはよくある話ですが、ヘンリー8世も似たところがありました。

国王に即位した時、彼は17歳の若者でした。ルネサンス時代の若者らしく、詩や音楽を嗜み、自分で演奏したり文章も書き残しています。また、スポーツも得意で若い廷臣らと汗を流したといいます。

そんなヘンリー8世は、即位の二ヶ月後に結婚します。 相手はあの、兄の妻キャサリン・オブ・アラゴンでした。

キャサリン・オブ・アラゴン ヘンリー8世の最初の妃
キャサリン・オブ・アラゴン
出典:Wikipedia

しかし、聖書で禁じられていた近親婚に当たる結婚だったことは、ヘンリーに後悔の念を植え付けました。それでも世継ぎを残すため、二人は子供を望みます。

キャサリンは死産と早産を繰り返しています。王子も産まれましたが、夭折。無事に産まれたのは1516年誕生のメアリー王女だけでした。

最初の妻との離婚問題

ヘンリー8世は、世継ぎは男子でなければならないと考えていました。そのため、男子を産めなかったキャサリンとの離婚を考えます。また、この時既にヘンリー8世は王妃キャサリンの侍女のアン・ブーリンを見初めていました。これも離婚の原因と言われています。

国王との出会い 出典:Wikipedia

しかし、元々ヘンリー8世とキャサリン王妃の結婚は当時の教皇庁が特別に許したものであって、それを覆すことは教皇クレメンス7世との対立を意味していました。

また、キャサリンは良き王妃、良き母であり、信仰心の厚い女性として宮廷の人々から信頼されていました。そしてキャサリンはスペイン・ハプスブルクとも関わりがあるわけで、離婚に反対する者に神聖ローマ皇帝カール5世もいました。実際にカール5世は離婚協議に介入してヘンリーの計画を頓挫させています。

さて、この難解な離婚を成立させるために、ヘンリー8世の統治で権力を握ったトマス・クロムウェルが動きます。

この動きはやがて政治的な宗教改革に発展していきます。

イングランドの宗教改革(ヘンリー8世時代)

ヘンリー8世は新たにイギリス国教会を設立して、教皇権からの分断を試みます。反対者にトマス・モアがいましたが、処刑されています。逆らう者には死をという姿勢は、彼の十八番になっていました。

さて。この分断はローマ・カトリックという国家的な枠組みからの脱却でした。本来、ヘンリー8世自身もカトリック教徒でしたが、この宗教改革を推し進めることで国家収入に匹敵する莫大な修道院の土地財産を得ることができたのです。

カトリック教会から離脱して、イングランド国教会の長となったヘンリー8世。彼はついにキャサリンと離婚し、彼女を追放。念願のアン・ブーリンと結婚します。

アン・ブーリンの処刑

苦労の末、1533年にアン・ブーリンと結婚したヘンリー8世。同年9月にエリザベスを授かります。

その三年後の1536年には元王妃キャサリン・オブ・アラゴンが病死します。キャサリンは地位を落とされていたため、その娘のメアリー王女も庶子となり、アン・ブーリンの娘エリザベスの侍女とさせられました。

しかしアン・ブーリンも流産をしてしまい、王が望む男子を産むことは出来ませんでした。そのため、姦通罪の濡れ衣を着せられ、1536年ロンドン塔で処刑されてしまいました。この処刑の翌日にはジェーン・シーモアと婚約して数日後に結婚したのだから、アンへの寵愛は既にシーモアに移っていたのでしょう。

また、当時王の右腕となっていたクロムウェルと対立を深めていたのも、彼女の明暗を分けたに違いありません。

その後も娶り続けた妻たち

ジェーン・シーモアは、念願の男子エドワードを産むものの出産時に死亡してしまいます。彼女の死に、ヘンリーは深く悲しみます。しかし、産まれた王子は病弱だったため、おそらく次の王子を望んだのでしょう。自分自身が次男であり、次男がいたからこそ長男亡き後の断絶を防げた過去があったのですから。

ジェーン亡き後、アン・オブ・クレーヴズと結婚していますが、これはすぐに解消されています。その次のキャサリン・ハワードも結婚後不貞の罪で処刑されました。

最後、6番目の王妃となったのはキャサリン・パーという富豪の未亡人でした。

彼女はバラバラになった家族の絆を大切にしたと言われています。身分を落とされていたメアリーを王女の身分に戻し、ジェーン・シーモアが生んだ男子エドワードの教育係にもなっていました。

父がカトリックだったのに対し、息子エドワードがプロテスタントだったのは、このキャサリン・パーの影響でしょう。

ちなみに、先日記載したジェーン・グレイが王位継承争いで対立したのが、ヘンリー8世最初の妃が生んだメアリーです。

余談ですが、このテューダー朝はメアリーの異母妹のエリザベス1世の死去で断絶しますが、人間味があり、いかにも「人の歴史」という感じがして好きです。

物足りない記事になった気がして仕方ないですが、また別記事をアップできた際は、こちらに追記したいと思います。

2019年2月14日追記:ヘンリー8世の6人の妃についてまとめた記事はこちら

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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。