ロシア

イヴァン4世 「雷帝」と恐れられた残虐非道のロシアのツァーリ

イヴァン雷帝 イヴァン4世 ロシアのツァーリ

イヴァン雷帝とも呼ばれる彼は、ロシアの専制君主としてオプリーチニキを率い恐怖政治を行った人物です。今回はそのイヴァン4世についてまとめていきます。

生い立ち

1530年8月25日、父ヴァシーリー3世と母エレナ・グリンスカヤとの間に誕生しました。なかなか後継に恵まれなかった両親にとっては待望の子でした。

しかし、イヴァンは呪われた子と呼ばれます。

それはヴァシーリー3世が長年連れ添った妻と別れ、18歳のエレナを妻に迎えたからです。エレナが魔術によって懐妊した、などという噂も流れたと言います。

噂はそれとして、イヴァン4世がロシア史上最恐のツァーリになるのは事実です。

そして彼が3歳の時に父ヴァシーリー3世が、8歳の時には母エレナがこの世を去りました。わずか8歳の少年イヴァンは貴族たちの権力争いに巻き込まれ、その心に暗い影を落とします。

父亡きあとは母エレナがイヴァンの摂政を行なっていましたが、彼女の死後は名門シューイスキー家tベーリスキー家が指導者争いをしていました。

心細さと不安定さからか、イヴァンは成長するにつれ犬や猫を虐待死させたり、異教徒の旅芸人らと騒いで遊ぶようになります。この頃から彼の残虐性が芽生えていたとも言えます。

ロシア初のツァーリへ

1547年1月16日、イヴァンは大公としてではなくツァーリとしてロシア史上初めて公式に戴冠しました。(父が亡くなった1533年に大公として既に即位しています。)

この戴冠式を主宰したのが、ロシア正教会の首長、府主教マカリーでした。彼はイヴァンの理念的支柱の人物とも言えます。そんなマカリーが主宰することで、ロシアにおける教会の地位を知らしめようとしたのです。

このマカリーや、母の生家グリンスキー家の後押しあっての戴冠でした。

しかし、彼が戴冠した年1547年7月の夏に、モスクワで暴動が起きてイヴァンの叔父(または伯父)のユーリィ・グリンスキーが殺害されています。グリンスキー家はイヴァンの摂政を務める立場にありました。

このグリンスキー家の失脚により、戴冠したばかりのイヴァン4世が親政を行うようになります。

そして戴冠一ヶ月後にはアナスタシア・ロマノヴナを妃に迎えています。

イヴァン4世の親政

ツァーリとなる以前から、イヴァン4世は司祭シリヴェストルにより、「神に選ばれたツァーリ」としての教育を受けていました。勉強に励み、聖書やローマの歴史を学び君主としての教養を身につけていき、その並外れた博識を発揮します。

彼は表現力も豊かで、のちに貴族クルプスキーと交わした書簡は、中世ロシア文学の金字塔の一つに数えられているそうです。

さて。1549年から、イヴァン4世は改革に乗り出します。

今までのロシアは「君主が命じ、貴族が決定する」というものでしたが、士族層の訴えにも応じる嘆願局を設けたり、中小貴族・聖職者・士族にも政治観かの機会を与えました。これには、門閥貴族ら大貴族を押さえつける目的が含まれています。

この改革には、イヴァン4世の懺悔聴聞司祭シリヴェストルや士族のアレクセイ・アダーシェフらが重要な役割を果たしていました。

ロシアにおける士族というのは、大公から土地を与えられて軍務に就くという、軍人貴族階級のことを指します。アダーシェフは清廉な役人として高い評価を得ていました。

中央行政機関を組織し、整備するだけでなく、軍制改革も行いました。新たに銃兵隊が組織され、これが騎馬中心の士族軍と並んでロシア軍の中核となっていったのです。

また積極的な対外進出も試みていて、戦争も行なっています。

最初のターゲットになったのが、不信仰の「ハガルの子孫」が支配するというイスラーム国家、カザン・カン国です。ロシアはこの戦争を「聖戦」と位置づけて戦います。1552年には激闘の末軍門に下らせています。また4年後にはヴォルガ下流域のアストラハン・カン国も征服してヴォルガ川を支配下に置きます。

こうして戦争を続けたイヴァン4世でしたが、1558年にリヴォニアに進軍し半分を占領した時に、リトアニア・ポーランド、スウェーデン、デンマークの介入を受け戦争は国際化して長期戦となります。

結局得るものが無いまま講和を結び、国土は疲弊し人口も激減しています。このリヴォニア戦争がロシアに打撃を与えていきます。

最愛の皇妃アナスタシアの死

イヴォニア戦争の泥沼化に伴い、イヴァン4世は徐々に側近らの信頼を失っていきます。

何かうまくいかないことがあると、彼はアダーシェフやシリヴェストルら改革政府のせいにしていったのです。しかも、1560年には最初の妻アナスタシアが病死。アナスタシアの母方のザハーリン家を敵視する勢力が暗殺したのでは?と、イヴァン4世は疑います。これは、モスクワ市民らによる「アナスタシアの死は毒殺ではないか」という噂を信じた結果でした。

アナスタシアは小貴族の生まれでありながら皇妃となったので、民衆にも慕われており、彼女の葬儀にはたくさんの人が集まり涙を流しています。イヴァン雷帝も号泣し、立っているのがようようという程嘆き悲しんだといいます。

イヴァン雷帝の苛立ちを上手に抑えられていた妻アナスタシアの死。彼女の死に疑いをかけられて追放された師シリヴェストルと有能なアダーシェフの追放。イヴァンをツァーリに押し上げたマカリー府主教の病気により、ついに誰も雷帝を止めることが出来なくなってしまったのです。

突然の退位宣言と引きこもり

長く対立していた大貴族らとの対立、裏切り者の処罰を巡る反発。貴族だけでなく側近からも非難され、膠着状態だったイヴァン4世は、突如1564年12月3日に家族と聖物と財産を持って首都を出て、モスクワ郊外のアレクサンドロフ村に引きこもりました。

しかも退位も宣言。残してきた遺言書には

「余は、貴族らの勝手気ままな自由ゆえに、己の祖父伝来の所有物から追い払われ、諸地方を放浪している。願わくば、神が我らをお見捨てなさらぬように」

堀越孝一(著)『悪の歴史 西洋編(下)』株式会社清水書院 2018第1刷

と書かれていました。これに民衆は仰天します。更にイヴァン4世は痛烈に貴族の売国とそれを許す聖職者を批判し、民衆に対しては深い愛を示した上で自身の不遇さを訴えたのです。

当時ツァーリは神によって選ばれた父という存在でした。民衆は激怒し赤の広間に押し寄せて、イヴァン4世の復位と「国の裏切り者」の処罰を求めました。

こうしてモスクワから派遣された代表団はイヴァン4世の復位を懇願し、「君主が望むままに」罪人を処罰し支配することを認めます。

オプリーチニナの結成

1565年2月。首都に戻ったイヴァン4世は恐怖政治を実行していきます。

クレムリンに戻った当日には、名門貴族シュイスキー一門のゴルバーディ公とその15歳の息子らを含む7名を斬首刑に処し、絶対的支配権の及ぶ地域を設定したオプリーチニナ(皇室特別領)制度を導入します。この直轄領を自ら選んだ貴族や士族層らの領主に統治させたのです。また、オプリーチニキも形成。これはツァーリに忠実なエリート階級の親衛隊というものです。

イヴァン4世とオプリーチニキの首領スクラートフ
イヴァン4世とオプリーチニキの首領スクラートフ
出典:Wikipedia

オプリーチニキはいわゆる秘密警察のようなもので、イヴァン4世の意思を忠実に実行していきました。ただし、その残虐性はイヴァンを「イヴァン雷帝」と印象付けたものです。

オプリーチニキ・オプリーチニナで目につくのは、その残虐性とテロル面(テロリスト面)でしょう。「裏切り者」の処刑は絶えず、貴族どころか聖職者・民衆からも犠牲者が出ました。

彼らは黒の馬具をつけた黒い馬に乗り、犬の頭が描かれた黒服・ベルトに箒(ほうき)のようなものを結んだ制服をきていました。敵に噛み付く犬、裏切り者を排除する箒が象徴です。

最も有名なのがノヴゴロド虐殺でしょう。

ノヴゴロド虐殺
オプリーチニキの到着で逃げる人々
出典:Wikipedia

1570年1月、イヴァン4世はノヴゴロドがポーランド・リトアニア側につこうとしていると疑います。そして15000人のオプリーチニキを引き連れ、市の有力者やその家族全員を虐殺します。ただその移動中の村々も焼かれたり、住民が口封じのために虐殺されています。

権力者だけでなく、何の罪もない住民もこの犠牲になりました。女性や子供は極寒の中、手足を縛られた状態で川に投げ込まれ、浮かび上がったところを斧や槍で突かれ沈められます。市民らは恐ろしい拷問の末、無実の罪を自白させられ殺害されてました。

ノヴゴロド虐殺は約1ヶ月以上続き、ノヴゴロドとその周辺で3千から数万人が犠牲となったと言われています。

実の息子イヴァンの殺害

イヴァン4世はこうした拷問や殺戮を好んでおり、自ら拷問の現場や処刑場に足を運んでいます。苦痛に歪む被害者を眺めては、恍惚とし、周りに少しでも同情する者がいれば、その人物も殺害したといいます。

そんなイヴァン4世の心は蝕まれてゆき、1581年に愛した最初の妻アナスタシアとの息子イヴァン・イヴァノヴィチを殴り死なせてしまいます。

『イヴァン雷帝と皇子イヴァン』(イリヤ・レーピン画)
『イヴァン雷帝と皇子イヴァン』
出典:Wikipedia

イヴァン雷帝の後継者として育った息子イヴァンでしたが、彼の妻に不満を持っていたイヴァン4世は、身重だった彼女の腹を何度も踏みつけ流産させてしまいます。

理由は、彼女が正教会の定めた妊婦用の衣装を身につけていなかった、というだけのものでした。皇太子妃の悲鳴を聞きつけた皇太子は妻を守ろうと、父の両手を抑えましたが、興奮した雷帝は持っていた錫杖で息子の頭を打ち砕いてしまいました。

イヴァン雷帝が我に帰って見たものは、うめき声を上げる息子。座り込んで震えるその妻。彼らを助けようとした家臣の怪我でした。

イヴァン皇太子は頭蓋骨が砕け、数日後に27歳で死亡。彼の妻も打擲と恐怖で流産。そして間も無く彼女も死亡しています。

周りからも優秀な後継者と期待されていた皇太子の、突然の死。

取り返しのつかないことをしてしまった後悔と悲嘆に、イヴァン4世は苛まれ、息子の死の2年後に発作を起こして亡くなります。

彼の後を継いだのは、知的障害を抱えた三男フョードルでした。

博識で革命家の素質を持ちつつも、その残虐性からロシア史上最大の暴君と呼ばれた彼の人生は、呆気なく終わりを告げたのです。

イヴァン4世(雷帝)年表

1530年8月25日0歳 誕生
1533年12月4日 3歳 父死去。モスクワ大公に即位
1538年 8歳 母死去
1547年1月16日17歳 ロシア初のツァーリに
1547年夏17歳 モスクワ暴動
1552年22歳カザン・カン国征服
1558年28歳リヴォニア戦争
1560年30歳最初の妻アナスタシア死去
1565年35歳オプリーチニナの結成
1570年1月39歳ノヴゴロド虐殺
1581年51歳息子イヴァン・イヴァノヴィチ撲殺
1584年3月18日53歳イヴァン4世死去

※月日が不明なものは満年齢で計算しています。

参考文献

  • 堀越孝一(著)『悪の歴史 西洋編(下)』株式会社清水書院 2018
  • 栗生沢猛夫(著)『図説 ロシアの歴史』河出書房新社 2014


ABOUT ME
kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。