ヤン・フスの生い立ち
ヤン・フスは、南ボヘミアの フシネツ村に貧農の子として1370年頃生まれました。フスは教会で奉公しながら生計を立てていたこともあってか、1380年代ごろにはプラハに訪れ、 プラハ大学で神学を始めます。
優秀だったフスは1400年には僧職者に任命され、1401年には哲学部長、翌年にはプラハ大学の学長に任命されています。
そして1402年にはフラハのベツレヘム礼拝堂の主任司祭兼説教師に任命されるまでに至ります。
この頃から、イギリスオックスフォード大学教授のジョン・ウィクリフという人物の改革思想に強く惹かれていきます。ウィクリフは教皇の威厳より聖書を重視する思想を展開していました。そしてフスは自身で「救霊預定説」を唱え始め、 聖職者、教会の土地所有、世俗化を厳しく非難していったのです。
救霊預定説とは
フスが唱えたこの「救霊預定説 」とは、人が救われるかどうかはその人の善悪によって左右されるものではなく、ずっと前から上によって決定されているもの。というものでした。
もっと簡単に言ってしまえば、それは聖書中心主義とも言えます。聖書に書かれているものを信じ、書かれていないものは喩えどんな権力者が主張したとしても従わない。というものでしょう。
話は少し変わって。
当時の教皇庁には、ローマ教皇が3人も存在するという異常事態に陥っていました。
特に力を持っていたといわれる教皇ヨハネス23世は、なんとシチリアの元海賊で、教皇のポストを買ったという人物でした。愛人も数多く抱え、とても聖職者とは言い難い教皇。教皇がそんな状態だから、枢機卿などの他の教会幹部たちも、私腹を肥やして好き勝手している状態でした。
こんな目も当てられない状況に、正義感もとい、聖書にのみ従うフスは後々聖職者を批判するようになります。
チェコ語の説教と聖書
当時の教会ではラテン語でミサが行われていました。ですがフスの時代では民衆は各国の言語で生活していました。
当然、ラテン語でミサが行われても、民衆は理解出来ません。ラテン語が分かるのは聖職者だけだったのです。
ですので、フスは1391年5月に、チェコ語で説教するための礼拝堂「ベツレヘム礼拝堂」をプラハに作ります。そしてチェコ語で説教をし、聖書もチェコ語に翻訳していったのです。
「神の言葉が制限されないように、この業(わざ)が他と比べて最も自由であり、教会およびその手足にとって最も役立てられるように」
と礼拝堂の設立文書に記しています。聖書中心主義であるフスにとって、言葉が通じないのでは説教もなにもあったものではありません。だからこそ民衆が分かる言語に翻訳したのです。
こうしてフスは民衆の心を掴んでいったのです。
平等主義
キリスト教では、イエスは貧しい人と共にあり、病気の人と共にあり、苦しんでいる人と共にある。ものとされていましたが、フスの目の前では不平等がまかり通っていました。
教会では貧しい人と金持ちの席は分けられ、聖職者は皆富豪層でインテリ気取り。そんな状態を見てフスは本来のキリスト教から離反していると感じ、イエス・キリストの原点に戻って民衆と共に歩まなければと強く感じます。
これは現代では当たり前のように感じますが、当時では珍しい、近代的な思想でした。
中世当時では救いは死後にあり、生きている間は差別・病気・貧困などは自然な状態と考えられていたのです。
ウィクリフの哲学的現実主義に影響を受け、聖職者に対して批判的になっていたフス。やがてフスは大司教から職を解任されてしまいます。
コンスタンツ公会議
こうした聖職者の腐敗に、ついに教会が重い腰をあげます。
1414年から1418年にかけてドイツのコンスタンツでコンスタンツ公会議が行われます。会議には協会関係者だけでも600人以上が集まったとされ、人々の関心と期待が寄せられていたことが伺えます。
さて、このコンスタンツ公会議の目的は、教皇が3人いるという問題を収束させて、新しくひとりの教皇を立てる。そして聖職者の乱れた生活を正していくというものでした。

(神聖ローマ皇帝)
Wikipedia
教会の保護者として、公会議を招集したローマ王(ドイツ君主)兼ハンガリー王ジギスムントは、会議にフスも招待しました。
フスは問題が解決される絶好の機会だと喜び、ジギスムントも会議中のフスの身の安全を保証する通行許可書を彼に与えました。
ところが、1414年11月3日、フスがコンスタンツに到着し、翌日教会へ向かうと異端者として逮捕されてしまいます。ジギスムントの通行許可書を持っていたにも関わらずです。
教会の言い分としては「(身の安全を)約束はしたが、守るとは言ってない」というもの。フスの敵対者が悪い噂を広めたことも相まって、理不尽にも彼は地下牢に放り込まれます。
これにジギスムントは激怒しますが、高位の聖職者を解任すれば会議も解散しなければならなくなる…と思いとどまり、結局会議と引き換えに、フスを見殺しにしました。
ボヘミア国民に人望のあったフスを追いやったことは、やがて、ジギスムントの威厳を失うきっかけへと繋がっていきます。
ヤン・フスの裁判
1415年6月5日の公判で、フスは「聖書に照らして自分が間違っていると証明されれば、喜んで認める」と宣言します。
しかし、カトリック教会では教会の伝統に従って聖書を読むため、伝統に反する聖書の読み方をするフスを異端と考えました。
また公判ではフスは自分に対する避難に簡素に答えることしか許されなかったため、その意図などが伝わることはありませんでした。
逮捕から既に数ヶ月が過ぎており、劣悪な環境で病にも苦しんでいたフス。まさに身も心もズタズタになっていました。
そんなフスに無情にも、 ジギスムントは彼に火刑を宣告します。これは、フスがボヘミアに帰るのは危険であり、異端者の処刑は「みせしめ」として、いくらかの効果があると考えたためです。
有罪判決の末、火刑に
最後までフスは「自分の望みは聖書に従って裁かれることだ」と反論しました。
周りの何人かは「主張を撤回せよ。」と命乞いをするように勧めたそうですが、死の直前までフスは神の意志に従うことを選び続けました。

Wikipedia
1415年7月6日。ヤン・フスは火刑に処せられ、その灰は近くのライン川にまかれました。
火にあぶられつつも、彼は最後に「真理は必ず勝利する」と叫んだと伝えれられています。この公会議ではフスが敬愛したウィクリフも異端認定され、遺体を掘り起こした上で燃やし、同じように川に流されました。
フスの死後、フスを支持していた「フス派」が、後にフス戦争を引き起こします。あのジギスムントはこれにより何度もフス派と対立し、敗れ続けたそうです。