16歳でイングランド女王になり、その在位はわずか9日間。王位継承争いで敗北し、斬首された悲劇の少女でもあります。今回はそんな彼女についてまとめていきます。
生い立ち
1537年にヘンリー8世の妹の孫娘として生まれます。母フランセス・ブランドンという女性で、彼女の母(ジェーンからすると祖母)は、イングランド国王のヘンリー8世でした。
父はヘンリー・グレイ。彼もエリザベス・ウッドヴィル王妃を曽祖母にもっていて、王家の血縁者でした。
グレイ家はその血統の良さから、後々王位継承に巻き込まれていきます。
誰もが認めた才女
自然の中でのびのびと、両親の愛情を受けてジェーンは育ちます。また勉学に熱心で、少女でありながら博識な女性として認知されていました。プロテスタントを熱心に信仰してもいました。
ただ、これが当時幼い国王亡き後政権を握ろうとしていたジョン・ダドリーに目をつけられてしまうのです。
望まない結婚
ジョン・ダドリーは自分の息子ギルフォードと、イングランド王家の血を引くジェーンを結婚させます。
この結婚の前、イングランドを納めていた国王ヘンリー8世が1547年亡くなった時、その息子であるエドワード6世が9歳で即位していました。ところがエドワードは生まれつき病弱で、1553年に夭折してしまいます。
エドワードの摂政をしていたエドワード・シーモア(エドワードの伯父)を失脚させ処刑しあジョン・ダドリーは、政権を握ります。
自分の立場をより確固たるものにしたかった彼は、息子を何とか王家の血縁者と結ばせたかったのです。そこで白羽の矢が立ったのが、ジェーンでした。
夫になるギルフォードは女癖が悪く、素行が良いと言えない男性でした。彼女は反対しますが、父ヘンリー・グレイからの勧めもあり、結局ギルフォードと政治結婚しました。
ジェーンが選ばれた理由がもう一つあり、彼女がプロテスタントを信仰していたことが挙げられます。幼い国王エドワード6世もプロテスタント信者であり、ジョン・ダドリーもそれに倣ってプロテスタント寄りの政治を行っていたのです。
ですが、次の王位継承者ヘンリー8世の娘メアリーは父と同じカトリック信者だったのです。
もしメアリーが王女になったら、自分の立場どころか命も危なくなるかもしれない。そうなる前にジェーンを女王にし、カトリックではなくプロテスタント信者による政治を目指そうとしたのです。
幼い王に王位継承をジェーンに渡す遺言を残させ、思惑を完成させようとします。
王位継承の争い
しかし、正当な王位継承権を持っていたメアリーも黙ってはいません。陰謀を恐れ一時逃亡していましたが、1553年7月19日に即位を宣言します。
エドワード6世の勅令を受けて王位を継承していたジェーンでしたが、ジョン・ダドリーの計画はごく僅かな人間にしか知られておらず、貴族達はことごとくメアリーに味方しました。
そのためわずか9日間だけの即位となり、ジェーンは夫ギルフォードらと共に逮捕されます。
レディ・グレイの処刑
そもそも王位も結婚も、ジェーン・グレイの望んだものではありません。周りに言われて、成り行きに身を任すしかできなかった当時の女性貴族の悲劇でした。
ライバルであったメアリーも、親しいグレイ家のジェーンの処刑を望んではいませんでした。逮捕だけで、最初は寛大に許すつもりでした。
しかし、ジェーンに悲運が転がり込みます。
メアリーがスペイン皇太子フェリペと結婚しようとした時、ワイアットの乱が起きたのです。これは暗に2人の結婚を反対する反乱であり、あろうことかこれにジェーンの父ヘンリー・グレイが参加していたのです。
流石にこれにはメアリーも目を瞑ることが出来ず、スペインからジェーン夫妻の処刑を要求されたこともあり、1554年2月12日、ジェーン・グレイは夫ギルフォートと斬首刑に処せられたのでした。
この処刑に臨むジェーンの絵は「怖い絵」として2017年日本に来日しています。
在位期間がわずか9日だったことから「九日間の女王」とも呼ばれています。
この在位の短さから、彼女を正当な女王と認めない考えもあるようですが、イギリス王室はジェーンを公式に歴代君主として数えているそうです。