「そなたの力でフランスを救へ」という神のお告げを聞いたジャンヌ。百年戦争でフランスの危機を救った聖女です。
生い立ち
ジャンヌ・ダルクは、1412年フランス東部ドンレミ村で農家の娘として誕生しました。父の名前はジャック、母はイザベル・ロメと言います。兄弟にはジャックマン、ジャン、ピエールの兄と、カトリーヌという姉(または妹)がいました。
普通の農民の娘として誕生したジャンヌですが、人一倍信仰心が厚く、村の教会に足繁く通っていたそうです。そして13歳の時に「フランスを救い、王太子を王にせよ」という神の声を聞きます。

出典:Wikipedia
比較的裕福な家庭で育ったとはいえ、ジャンヌはただの村娘。それでも神の声に従い、ジャンヌは親戚の男性と、ヴォークルールという場所に向かいます。
そこの守備隊長に援助を求めましたが、当然相手にされません。門前払いを受けたジャンヌでしたが、その半年後、改めてヴォークルールへ向かい、根気強く粘ります。これに根負けしたのか、ヴォークルールではジャンヌを王太子の元に送ることを決めたそうです。
これには諸説あり、たまたまヴォークルールの近くにシャルル王太子に関わりのある貴族が滞在していて、ジャンヌに世話になり、神秘的な彼女を利用しようと王太子のところへ向かわせた等あります。なにわともあれ、ジャンヌダルクは王太子のもとへ向かったのです。
シャルルとの謁見
1429年3月、彼女はシノン城に滞在していたシャルルに謁見します。シャルル7世はそのとき、事実上王権を失っている状態でした。
この謁見時、シャルル7世はジャンヌを試すために偽物を王座に座らせていました。そして自分は周りの人々に紛れ込んでいました。到着したジャンヌは偽物の王には目もくれず、シャルルの元へ進み、ひざまつきました。

出典:Wikipedia
これでシャルルはジャンヌの言葉を信じて軍を与えます。(ただしすんなり与えたわけではなく、彼女が悪魔との契約者ではない事を証明するために処女検査が行われたり、聖職者たちによる尋問も行われたようです。)
ジャンヌに会うことに懐疑的ではありましたが、当時の人々が抱くドンレミ村のイメージというのが特殊だったのが、彼女の「神の声」を信じるきっかけになったかもしれません。
実はドンレミ村は稀に、神の言葉を伝える預言者が登場する場所として知られていました。これも、彼女の神秘性を上げた要因でしょう。
オルレアンの解放
オルレアン行きが許されたジャンヌには、彼女用の甲冑や、長三角の旗が与えられます。この旗はジャンヌ・ダルクの象徴としても有名です。二人の聖職者と、中央にイエスマリアが描かれた旗です。ジャンヌもこの旗を大変気に入っていたようです。

そして4月29日、国王シャルルより与えられた国軍をつれ、彼女はオルレアンへ赴いて籠城軍と合流します。そして5月8日にオルレアンを解放し、イングランド軍を撤退させました。
町では奇跡の少女ジャンヌが、本当に現れてオルレアンを解放したということで歓喜に沸きます。
6月のパテーの戦いでも勝利しランスを取り戻します。ジャンヌに促された形で7月、シャルルはランスで成聖式を行います。これにより王位は再びフランスに戻るのでした。
捕虜、そして処刑
ところがその後、ジャンヌは1429年にブルゴーニュ派が支配するパリを襲撃しますが、失敗に終わります。そして翌年にはコンピエーニュの戦いで捕虜となり、1431年にルーアンで行われた宗教裁判で、イングランド軍によって異端者として火刑に処せられてしまいます。
火刑になる前、処刑の恐怖からかジャンヌは一度回心してもいました。「神を侮辱しました。悪魔を崇拝しました」と、彼女の口から語られたのです。これで本当なら裁判が終わり、彼女は処刑されることはなかったでしょう。

しかしこの発言から4日後に、彼女は男装し「戻り異端」となります。あの回心は処刑の恐怖から出たものであり、聖人らの言葉に疑いは持たない。自分は彼らを信じると言って、信念をつらぬいたのです。故に、彼女は処刑されました。
その後復権裁判が行われて、1456年に異端宣告は取り消されています。ジャンヌ・ダルクが亡くなって25年後のことでした。
現在のシノン城
シャルル7世とジャンヌ・ダルクが謁見した広間は残っていませんが、彼らのゆかりの城シノン城は今もヴィエンヌ川のそばにあります。また、城内にはジャンヌダルクの美術館があります。この城は今では、フランスの重要な観光地となっているのです。