オーストリア・ハプスブルク帝国の中でも、絶大な人気を誇るのがマリア・テレジアの時代でしょう。今回ご紹介するのは、そんなテレジアと息子ヨーゼフ2世を支えたオーストリアの政治家カウニッツです。
才能を認められてオーストリアの宰相へ
ヴェンツェル・アントン・フォン・カウニッツ伯爵は、1711年に貴族の息子として生まれました。
彼がその名前を引き出されるのは、オーストリアのマリア・テレジアが、プロイセンに奪われたシュレージエンを取り返そうと躍起になっていた時です。
先の1748年、アーヘンの和約(オーストリア継承戦争の講和条約)で、その才能がテレジアの夫フランツ1世により見出されていたのです。
カウニッツは1742年に創設された内閣制度で、宰相に任命されます。そして1750年から1752年の2年間を敵国フランスで過ごします。
打倒プロイセンに向けて
彼はフランスへ赴いたのには理由があります。
カウニッツはマリア・テレジアらの前で、誰も想像出来なかったある提案を出します。
それは300年敵対関係にあったフランスと同盟を結ぼうというものでした。当然誰もが驚愕し、反対します。そんなこと不可能だと口々に言い合う中で、マリア・テレジアはカウニッツの提案を飲みます。(ここに彼女の、人を見る目がずば抜けて良かったことが現れています。)
カウニッツの言うことは、憎きプロイセンを打倒するためには、三方から攻め入るのが良いというもの。その三方とはすなわち、オーストリアとロシアと、フランスでした。
当時オーストリアはイギリスと同盟を結んでいましたが、それよりもフランスと結んだ方が得策と考えられたのです。
かくしてカウニッツはマリア・テレジアの全権を受け、フランスへと赴きます。そして流暢なフランス語、教養力、華やかなな装いで、派手で娯楽好きのフランス貴族たちを魅了していきました。
フランスとのヴェルサイユ条約
勿論、フランスの人々もオーストリアと同盟を結ぶなど、考えもしませんでした。しかし、一人だけこれ以上ない適材適所な人物がいました。

プロイセンのフリードリヒ2世(大王)を憎悪し、フランス国王にも信頼され、フランスの政治に口を挟めた唯一の人・・・フランス国王ルイ15世の寵妾ポンパドゥール夫人でした。(フリードリヒ2世は大変な女性嫌いで、自身の飼っていた犬にポンパドゥールという名前をつけるほど、馬鹿にしていたようです。)
カウニッツは優美さと知性を認められ、ポンパドゥール夫人にマリア・テレジアからの手紙を渡すことに成功します。そして彼女からの信用も得て、1756年ヴェルサイユ条約を結んだのです。不可能と思われていたフランスとオーストリアの同盟の実現は、当時のヨーロッパを驚かせました。
ロシアの女帝とも手を結ぶ
フランスと友好関係を築いた次に、カウニッツはロシアに目を向けます。

当時、ロシアを治めていたのは女帝エリザヴェータでした。ここでも、フリードリヒ2世の女性軽視の態度が気に食わなかったエリザヴェータは直ぐにオーストリアに賛同します。
プロイセンのフリードリヒ2世が女性嫌いでなかったら、三方から責められることがなかったかもしれません。そして敵に回したのが力のある女性3人だったのも皮肉と言えそうです。
プロイセンを追い詰める

フリードリヒ2世
出典:Wikipedia
3人の女傑が集まったことで、プロイセン包囲網が結成されました。いわゆる「3枚のペチコート作戦」です。カウニッツの外交の努力が実を結び、やっとマリア・テレジアは宿敵プロイセンとその王フリードリヒ2世を追い詰めます。
自殺まで考えたフリードリヒ2世でしたが、まさかのタイミングでロシアのエリザヴェータが急死してしまいます。
しかも、その跡を継いだのがフリードリヒ2世を尊敬していたピョートル3世でした。これによりロシアは寝返り、プロイセンはギリギリのところで命拾いしたのです。
カウニッツのその後
彼はマリア・テレジアとその息子、ヨーゼフ2世のもとで内政・外交に手腕を振るいます。
カウニッツは啓蒙主義者でもあり、同じく思想が一致するヨーゼフ2世ともウマがあったのでしょう。

出典:Wikipedia
第一次ポーランド分割には、ヨーゼフ2世に賛同して参加しています。(マリア・テレジアの反対を押し切ってのことです。)これによりオーストリアは領土を広げています。
また、カウニッツは宮廷の最高諮問機関である国務参議会も設立していました。
マリア・テレジア、息子ヨーゼフ2世、レオポルト2世の統治の間政治家として活躍しますが、1792年レオポルト2世が死去すると、高齢になっていたカウニッツも引退しました。
そして1794年6月27日、83歳でこの世を去ったのです。
参考文献
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- 稲野 強 (著) 『マリア・テレジアとヨーゼフ2世―ハプスブルク、栄光の立役者 (世界史リブレット人) 』2014 山川出版社