待望の王太子誕生
1638年9月4日の夜11時ごろ、フランス国王ルイ13世と王妃アンヌ・ドートリッシュとの間にルイ14世は生まれました。
両親は同い年で、14歳で政略結婚。なかなか子供が生まれず、夫婦仲も冷えていた中、結婚23年目にして誕生した王太子でした。
そしてルイ14世が生まれて4年後、父王ルイ13世が1643年5月13日に死去して、わずか4歳のルイが即位します。摂政を行ったのは、母のアンヌでした。
母后アンヌ・ドートリッシュ
実はルイ14世の母アンヌはフランス人ではありませんでした。スペイン王家の出である彼女は、14歳でフランスに嫁いでからも、実家スペインへの未練を断ち切れていませんでした。
が、ルイ14世を産み、母となった彼女の行動は周囲を驚かせるものでした。
夫ルイ13世が亡くなった翌日にパリへ向かいます。そしてパリ高等法院で開かれた新裁座に挑み、摂政の座を勝ち取ります。
というのも、元々夫婦仲の良くなかったルイとアンヌ。ルイ13世は信用できないアンヌが政権を握ることを恐れて、摂政に制限を設けるように遺言を残していたのでした。アンヌはこれに対抗するために、わざわざ住んでいたサン-ジェルマンを離れて、4歳の息子を連れて議会に臨んだのでした。
彼女は以降、ルイ14世の摂政として政治的センスを発揮していきます。
幼い頃のルイ14世
父が早くに亡くなったことで、「父親」というものを理解することが難しかったようです。代わりに母から愛情とたくさんの躾を受け、様々なことを学んでいきました。勉学の方は凡庸なものでしたが、狩りや乗馬などのスポーツには勤しんだと言います。
これがゆくゆく、理論より実践でやってのけるスタイルを形成したのかもしれません。
高等法院のフロンド
1648年、三十年戦争が及ぼした財政危機に、パリ市民が不満を露わにします。そしてパリ高等法院がこれを支持したことで高等法院のフロンドが幕を開けました。
フロンドとは投石器(投石合戦)の意味で、当時流行っていた子供の遊びのひとつでした。
マザランとはルイの母アンヌの摂政を手助けした人物で、ルイ14世の教育係でもあります。
さてこのフロンドの乱ですが、先程話したマザランと貴族層との対立・新たな課税政策による市民の怒りから来ています。マザランは優秀な政治家でしたが、生粋のフランス人ではありませんでした(彼はイタリア人。1638年にフランスに帰化しています。)
ルイ14世の母后もスペイン人だったことから、民衆からの批判もあったようです。
この反乱を招いてしまったマゼランですが、そこは手腕を発揮し、最終的に終結させています。三十年戦争が丁度この年に終結したことも、彼にとっては不幸中の幸いでした。負担が減り、乱の終息に対応できたからです。(とはいえ、元はといえばこの戦争で使った費用を賄うための新課税で起きてしまった乱なのですが…)
ルイ14世の親政
その後の1661年、ルイ14世にとって父であり教師であったマザランが、病のため死去しました。
この時ルイはマザランに任せきりだったが、これからは自分が統治をするのだと決心します。そして、本格的にルイ14世の親政の時代がやってきたのです。
この親政の中で有名なのが、フーケという人物の投獄でしょう。
マザランの遺臣に、フーケとコルベールという人物がいました。ルイ14世もマザランの残した家臣を信頼していましたが、フーケとライバル関係であったコルベールが計略を練ります。
マザランは自分の後継に、コルベールを指名していました。これが彼の運命だったかもしれません。フーケは有能な家臣でしたが、公金横領などで私腹を肥やしていました。
実は同じことをマゼランも行なっており、フーケについて他言することはありませんでした。そこを、ライバルのコルベールがルイ14世に言いつけた形になります。
あまりの横領金額に、ルイ14世怒りは爆発します。当時の横領は特に決まりはなかったようで、フーケやマザランのようなことは日常的に起こってはいたようです。ですが、王が恐怖すら抱くほど、この横領額は凄まじかったのでしょう。
フーケは最終的にマスケット銃士隊長のダルタニャンにより逮捕されます。そして1665年にピニュロルの要塞に送られ80年に獄死してしまいました。
なお、このフーケの失脚には彼が関わっていた、オカ ルトグループの影響を排除する目的も絡んでいたとも言われています。
彼の逮捕に同情的な貴族もいましたが、ルイ14世にとってこれはセレモニーでもありました。自分の重要な家臣を、自ら断罪することで自身を「絶対的」な象徴に位置づけたのです。
ヴェルサイユ宮殿の増築
ルイ14世は自分の理想の宮殿を作りたいと、父王が狩用の館として立てていた小城館を改築していきます。これがのちのヴェルサイユ宮殿です。
この増築には、先ほどの不運な財務卿フーケの荘厳な城もイメージに取り込んだと言います。(豪華絢爛なフーケのパーティに参加したルイ14世は、少しの嫉妬と羨ましさを覚えたのでしょう。)
また、この改築に画家シャルル・ル・ブランが雇われています。彼はのちの1664年には王の首席画家に登りつめています。
晩年のルイ14世
スペイン継承戦争がひと段落しかけた頃、彼は後継問題に頭を悩ませていました。
というのも、継承権を持つ者が相次いで亡くなり(1711年に王太子ルイが病死。1712年に新たに王太子になったブルゴーニュ公の妃マリ-アデライードが天然痘で病死。その6日後に夫ブルゴーニュ公も亡くなってしまいます。)、直系の候補は1710年生まれの曾孫だけだったのです。(これがのちのルイ15世です)
幼い曾孫に将来を託し、ルイ14世は1715年9月1日、76歳で壊疽の悪化により崩御しました。
彼の在位は72年にも及び、、フランス史上最長となってギネス世界記録にも認められています。
参考文献
- 図解ブルボン王朝 長谷川輝夫(著)
- 図解ルイ14世 佐々木真(著)
- 図解フランスの歴史 佐々木真(著)
- 図解ヨーロッパの王朝 加藤雅彦(著)
- ビジュアル選書フランス王室1000年史 新人物往来社(編集)
- ビジュアル世界史1000人上巻 宮崎正勝 (著)