絶対王政を行ったルイ14世や、フランス革命で断頭台の露と消えたルイ16世に挟まれる形のルイ15世。彼はフランスの財政難や思想の混沌が燃え広がる前に人生の幕をおろした人物ですが、政治に無関心で愛人ばかりに気を取られていたため、後に続くフランスの混沌期を助長したと言えるでしょう。
今回はそんなルイ15世についてまとめていきます。
生い立ち
ルイ15世は先代王ルイ14世(太陽王)のひ孫として、1710年2月15日にヴェルサイユ宮殿で誕生します。
父はルイ14世の長男である王太子ルイの長男、ブルゴーニュ公ルイです。
本来ならば父や祖父らが王太子(ドーファン)であり、王位を継承するはずだったのですが、彼らは相次いで死去。(ルイ14世が76歳まで存命したため、跡取りである息子のルイが1711年に49歳で先に亡くなってしまったのです。)
更に不幸は続き、そのルイの息子(ルイ15世の父)も翌年1712年に天然痘にかかり、妻共々20代という若さで亡くなってしまいます。
ルイ15世の両親は当時としては珍しく、とても夫婦仲が良かったそう。先に妻が天然痘で倒れ、その看病を付きっきりで行った故に父も天然痘で倒れたと言われています。
ルイ15世には他に兄が二人いましたが、長男は1歳になる前に夭折。次男も、両親の後を追うように病死しました。そのため、唯一残った三男ルイが王位を継承します。
わずか5歳での即位
曽祖父であるルイ14世が1715年9月1日に崩御し、まだ5歳だったルイが15世として即位します。幼いルイ15世の摂政にはオルレアン公が就きます。
ルイ14世と不仲であったオルレアン公ですが、パリ高等法院やローマ教皇を支持する人々から後押しされて、政治の実権を勝ち取りました。
さて、ルイ15世が7歳の頃に教育係としてフルーリー司教に出会います。彼は後に宰相としてその敏腕を振るうことになります。
王妃マリー・レクザンスカとの結婚
1723年2月15日に13歳となったルイ15世には、マリアナ・ビクトリアという婚約者がいました。
ところが、その2年後にルイ15世が体調を崩し、急遽跡継ぎを急ぐ必要が出てきたのです。マリアナはその時わずか5歳。周りは慌てて子供がすぐに産める年の王女を探します。
そこで選ばれたのが当時21歳だったマリー・レクザンスカでした。弱小貴族の娘だった彼女が「健康的で年齢的にも子供が産めそうだったから」という理由で王妃になったのです。

出典:Wikipedia
マリアナ・ビクトリアはスペイン・ブルボン家の長女で、最も可愛がられた娘。それを突き返し、弱小貴族の娘と結婚したのです。スペイン王国との関係は一時悪化し、周りからもマリーとの結婚は不釣り合いだと非難されました。
多くの反対を押し切り、1725年9月に二人は結婚。ルイ15世はマリーを熱愛して毎年のように子供を授かりました。
最終的に王妃マリーの方が出産への負担に辟易して、ルイと距離をおいたとも言われています。
ルイ15世の統治
摂政から宰相となっていたオルレアン公は、ルイ15性が成人宣言をした1723年12月に死去。
オルレアン公に代わって宰相になったのはルイ・アンリです。しかし、これが上手く行かず最終的にフルーリー枢機卿が宰相となります。

出典:Wikipedia
ルイ15世は先代のルイ14世と違い、政治に無関心な王でした。そのため、フルーリーがルイ15性に代わってフランスを統治していきます。敏腕で優秀だったフルーリーが治めた間は「回復の時代」と位置づけられています。
この「回復」というのは、先代ルイ14世で繰り返された戦争の疲労を、回復させたという意味合いが強いです。ルイ15世の統治の前半期であり、最も穏やかな期間でもありました。
しかし、オーストリアのマリア・テレジアによるハプスブルク相続問題で勃発したオーストリア継承戦争の最中、フルーリーは1743年に90歳で亡くなります。
これ以降、ルイ15世は宰相を置かず自ら親政を行うようになりました。ですがこの戦争で失ったものは大きく、七年戦争によりフランスはアメリカ大陸やインドの植民地の多くを失い、財政悪化に拍車をかけたのです。
ポンパドゥール夫人
ルイ15世は体格の良い美男子と称された国王。フルーリーが亡くなった時、まだ33歳と若かったのです。
彼はシャトールー公爵夫人ら貴族の女性と浮き名を流すようになります。そして1745年には運命の女性、ポンパドゥール夫人と出会います。

政治に疎かったルイ15世と違い、ブルジョワ階級の娘でありながら貴族の女子以上の教育を受け、大変頭のキレる女性でした。美貌に溢れたポンパドゥール夫人は、あっという間にルイ15世の寵愛を受けるようになります。
当時、フランスでは啓蒙思想が流行していましたが、ポンパドゥール夫人もヴォルテールなどの文人と交流を深めています。やがて彼女はルイ15世の信頼を得て、政治にも介入していきました。
ルイ15世の晩年
1768年に王妃マリー・レクザンスカが死去しても、ルイ15世の女性関係は派手でした。日本で言う還暦間近の60手前にして、今度はデュ・バリー夫人を公妾に迎えます。

出典:Wikipedia
「最愛王(ビアンネメ)」の名前に相応しく、常に女性を取り巻いていた美男のルイ15世。しかし、彼の最期は自身の両親、そして兄弟を襲ったあの天然痘によるものでした。
孫であるベリー公(のちのルイ16世)を後継者として、ルイ15世は1774年5月10日に64歳の生涯を終えてしまいます。
放蕩により、フランスの財政を悪化させていた彼の葬儀は行われず、ひっそりとフランス歴代の国王が眠る聖廟サン・ドニに埋葬されたそうです。
余談ですがこの聖廟サン・ドニはルイ16世が処刑されたフランス革命時、政府の命令で徹底的に破壊されています。アンリ4世・ルイ13世・ルイ14世、そしてルイ15世の墓も暴かれ、彼らの亡骸は共同墓穴に投げ込まれたのでした。
参考文献
- 竹中幸史(著)『図解 フランス革命史』 河出書房新社 2013
- 加藤雅彦(著)『図解 ヨーロッパの王朝』 河出書房新社 2016