フランス

ルイ16世 フランス革命の断頭台に消えた悲劇の君主/西洋史/歴史人物

フランス国王 ルイ16世

ルイ16世はフランスの国王でしたが、1789年に起こったフランス革命で処刑された悲運の王として知られています。

誕生

ルイ16世は1754年8月23日、フランス王太子ルイ・フェルディナンと母マリー=ジョゼフ・ド・サクスの三男として誕生しました。この時ベリー公となります。

ベリー公(ルイ16世)の父フェルディナンは、国王であるルイ15世より先に亡くなります。そして次男は1歳で亡くなり、王位を継ぐだろうと思われていた長男ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ(ブルゴーニュ公)も、結核により父より早くこの世を去ります。こうしてルイ15世の孫のベリー公がドーファン(王太子)となったのでした。

父や祖父のように偉大な師には恵まれませんでしたが、放蕩な生活を送る15世を良く思わない側近らによって、ルイ16世は歴史・地理、英語やラテン語などを学んだとされます。

マリー・アントワネットとの結婚

ルイ16世とマリーアントワネットの結婚イメージ バラ フランス

1770年5月16日、オーストリアのハプスブルク家とフランスのブルボン家の政略結婚として、王太子ルイとマリー・アントワネットと結婚します。この時ルイは15歳、マリーは14歳でした。

約3年程婚約から結婚まで時間があいているのは、ルイの父フェルディナンが結婚に反対していたことや、ルイの兄ブルゴーニュ公が死去していたことが挙げられます。(本当は兄のブルゴーニュ公の結婚相手として考えられていました。)反対していた父も母も亡くなってしまったので、この縁談は進められたのです。

王位継承、フランス国王へ

ヴェルサイユ宮殿 フランス

祖父であるルイ15世が、天然痘のため1774年5月9日に64歳で崩御します。これにより翌日5月10日、ルイ・オーギュスト王太子は即位しルイ16世となりました。彼が19歳の時でした。そして、翌年にランスのノートルダム大聖堂で戴冠式を行っています。

この新しい王を補助したのは、父フェルディナンの遺言で推薦されていたモールパ伯でした。そして彼の指示によって財務総監にテュルゴーが採用されます。

しかし、テュルゴーの行った政策は失敗に終わります。穀物取引の完全自由化(自由な取引によって適正な価格を維持する目的)の王令でしたが逆効果で、穀物の価格が高騰します。民衆は怒り、各地で暴動が起こりました。(小麦粉戦争とも言います)

これによってわずか2年でテュルゴーは罷免。ルイ16世の政策は、スタートから暗雲が立ちこめていたのです。

度重なる戦争での疲弊

戦争のイメージ

ルイ14世ルイ15世と戦争や浪費で赤字が続いていた国家財政でしたが、ルイ16世はアメリカ独立戦争に参加します。これには宿敵イギリスへの雪辱を果たす目的もあったでしょうが、結果的にフランスはわずかな海外領土しか得られず、財政はますます苦しくなっていきました。

王妃マリー・アントワネット

またルイ16世の王妃、マリーアントワネットも浪費のくせがあり、衣装や宝石、賭博に派手にお金を使っていました。彼女一人の浪費で国が傾くことはなかったでしょうが、それでも赤字財政の中での王妃の行動は目立つものがありました。

マリーアントワネット フランス王妃 ハプスブルク家
出典:Wikipedia

そしてルイ16世と王妃の間には、なかなか子供が生まれませんでした。最初の子が誕生した時、結婚から約7年の月日が経っていました。これにはルイ16世の性的不能を疑うものもいたようで、心配したマリーアントワネットの母マリア・テレジアは、長男ヨーゼフを夫婦の相談相手に回すなどやきもきしていました。

こうした結果が実ったおかげで、長女マリーテレーズら合計四人の子供を授かります。(ただ、長男は10歳で他界、末娘のソフィーもわずか10ヶ月で亡くなっています)

フランス革命

マリーアントワネットの話でも記載したように、1789年7月14日に武装したパリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃し、フランス革命が勃発します。

『バスティーユ襲撃』フランス革命
『バスティーユ襲撃』  出典:Wikipedia

革命の引き金は先に行われた「三部会」でした。先代、先先代の王たちの赤字、アメリカ独立戦争での赤字が積み重なり、いよいよ苦しくなってきたフランスは1789年に三つの身分(聖職者、貴族、平民)からなる「三部会」を行なっていましたが、これが一般市民の政治介入へのきっかけになったのです。

ルイ16世や貴族は武力で平民議会を弾圧しようとしましたが、当然平民の不満が爆発します。これが、バスティーユ牢獄襲撃に繋がったのです。

その後、ヴェルサイユ行進によって国王一家はパリのテュイルリー宮殿へ身柄を移されました。オーストリアへの逃亡も図りましたが、これも失敗に終わります。結局信頼を失ったルイ16世は、さらにタンプル塔に家族共々幽閉されてしまったのです。

国王の処刑

幽閉されたルイ16世でしたが、幸いにもタンプル塔には沢山の書物があり、読書を楽しむことができました。家族と暮らすささやかな生活です。息子のシャルルに言語を教えていたとも言われています。

しかし、そんな生活に終止符が打たれました。1793年1月、ルイ16世の処刑が国民公会で決定したのです。そして1793年1月21日午前10時22分、パリの処刑人シャルル・アンリ・サンソン(ムシュー・ド・パリ)によりルイ16世は断頭台の露と消えました。

皮肉にも、このギロチンの精度を高めるために刃を斜めのデザインにするように助言したのも、ルイ16世でした。

ABOUT ME
kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。