ルートヴィヒ2世の名前を有名にしたのは、彼の王としての業績より、彼が立てた白亜の城「ノイシュヴァンシュタイン城」の方でしょう。
誕生
1845年8月25日、バイエルンの皇太子マキシミリアンとプロイセンの王女マリーの長男として、オットー・ルードヴィヒ・フリードリッヒ・ウィルヘルムは誕生しました。
誕生した場所はヴィッテルスバッハ家の城、ニンフェンブルク城でした。ルードヴィヒ2世が誕生した部屋は、今も残されています。
ノイシュヴァンシュタイン城
ドイツには、シンデレラ城のモデルにもなったと呼ばれる、美しい城があります。

ドイツ・バイエルン州フュッセン近郊のホーエンシュヴァンガウに立つこの城こそ、ルートヴィヒ2世が自分の理想を全て詰め込もうとした「ノイシュヴァンシュタイン城」です。
ルートヴィヒ2世が王となったのは彼が18歳の時。
当時バイエルンは、オーストリアとプロイセンに並ぶ大国でした。
若く美貌に溢れた新国王誕生に、民衆も歓喜しました。
しかし、ルートヴィヒ2世にはやる気がありません。夢見がちで芸術をこよなく愛していた少年でもあった彼は、作曲家ワーグナーに傾倒します。
そして現実逃避するように、このノイシュヴァンシュタイン城建設に乗り出していきました。
狂王とワーグナー
王位につくとルートヴィヒ2世はワーグナーを呼び寄せ、彼に破格の年金と待遇を用意しました。ワーグナーの誕生日に、ルートヴィヒ2世は自分の肖像画をプレゼントしたという話もあります。
しかし、お金使いの荒かったワーグナーを周りが良い顔をするはずもなく、彼は一年余りで追い出されてしまいます。
さてルートヴィヒ2世の芸術に関する関心は驚くほど高く、ノイシュヴァンシュタイン城の設計には建築家ではなく、宮廷劇場の部隊装置や美術を担当していたミュンヘンの画家・クリスチャンヤンクに依頼したほど。
最終的にファンタジー要素を城にどんどん盛り込み、城にはなんと人口洞窟まで設けていました。
戦争の代償と見返り
政治に無頓着だったルートヴィヒ2世は、1866年にオーストリアの友軍としてプロイセンとの戦争に参加します。
「なぜ戦争をしなければならないのか?」と思いながら、渋々参戦したに違いありません。
先の戦いでプロイセンに敗戦した彼は、1870年に起こった普仏戦争で、苦渋の選択の末に、プロイセンと手を結びます。
戦後ビスマルクはルートヴィヒ2世を説き伏せ、ルートヴィヒ2世に年金を与える約束をします。そして代わりにルートヴィヒ2世はビスマルクに、プロイセン王のドイツ皇帝就任を認めていました。
禁治産者の烙印
ノイシュヴァンシュタイン城だけではなく、彼はリンダーホフ城やレンキムゼー城の建設にも取り掛かっていたのです。バイエルンは大国でしたが、度重なる建築にバイエルン王家の財政は火の車。
ルートヴィヒ2世の年収と年金を合わせても、到底払える建築費ではなかったのです。
先の普仏戦争では、彼の弟オットーが精神異常に陥っていましたが、ルートヴィヒ2世もワーグナー追放から自暴自棄や奇行が目立つようになっていました。
家臣らはルートヴィヒ2世にこれ以上統治は無理だと判断し、1886年6月12日に彼を逮捕し廃位させると、ベルク城に追放します。
謎の死

出典:Wikipedia
その翌年のことです。6月13日、ルートヴィヒ2世は医師のベルンハルト・フォン・グッデンと共に、シュタルンベルク湖で水死体で発見されます。事故か殺人か、現在でも彼らの死の原因は明らかにされていません。
余談
ルートヴィヒ2世は、その美しさとメルヘン趣向のため、しばしば小説や演劇、映画などの題材としても取り上げられています。また当時でもたくさんの絵画が残されています。
彼のうまれたヴィッテルスバッハ家は、王家としての名門というだけでなく、美男美女を輩出する家系としても知られています。ルートヴィヒ2世の他は、オーストリアの皇妃となったエリザベート(エリーザベト)も有名です。
またその美しさから、ルートヴィヒ2世は女性に大変モテました。ただ、女性に対して懐疑的であったルートヴィヒ2世は彼女らを遠ざけます。まだ赤ん坊の時に無理やり実母から引き離されたことや、乳母の急死なども彼に女性に対するトラウマを与えたのでは?という話もあります。
彼が親しくした女性には、先ほども述べたエリザベートがいます。ただ、恋愛感情というよりは、尊敬に値する女性として見ていたようです。中世騎士の「見返りを求めない愛し方」にも傾倒していたようです。
王妃も愛妾もいなかったルートヴィヒ2世。同性愛の話が持ち出されることもありますが、例え気持ちがそちらにあったにしても、肉体的な関係は戒めていたようです。