フランス革命に登場する革命人のグループに、ジロンド派があります。ロラン夫人は、その実質的な指導者であり、ジロンド派の女王と呼ばれていました。実際に当時はベルサイユの女王マリーアントワネットよりも、政治的影響力を持っていたと言われています。
今回はそんなジロンド派の女王の生い立ちから、ギロチンに送られて処刑されるまでをまとめていきたいと思います。
生い立ち
ロラン夫人、本名はマリー=ジャンヌ・フィリッポン・ロラン,ラ・プラティエール子爵夫人といいます。または当時使っていたペンネーム「マノン」を使用しマノン・ロランとも呼ばれることがあります。
彼女は1754年、パリの彫金師(宝石商に近い仕事だったらしい)の中流ブルジョワの家に生まれました。
幼い頃から英才教育を受け、頭が良く字も綺麗に書き、当時の啓蒙思想家ヴォルテールやモンテスキュー、ルソーなどの本を愛読していました。特にルソーの考えに傾倒していたといいます。
夫ロランとの結婚
近所でも可愛いと評判だったパリジェンヌ・マリーはその後、1780年に20歳年上の工業監督官であり、哲学者でもあったロランと結婚します。
結婚後、高級官僚の妻となったロラン夫人。夫がリヨンに赴任して、一度彼女はパリから離れます。要領が良い彼女は主婦としても完璧な女性でした。娘も生まれて幸せな生活を送っていたのです。
誰もが羨むような、そして自分でも満足のいく暮らしに満足していたロラン夫人。ですが、やがてフランス革命の情熱に突き動かされていきます。
フランス革命勃発
フランス革命が起こった1789年、ロラン夫人は35歳。地方であるリヨンで革命を知り、いても立ってもいられなくなっていました。
元々ルソーに傾倒していた彼女は、三身分の不平等に不満と憎悪を抱いていたのです。自由と平等を掲げる革命に、自分も参加したい気持ちが強かったのでしょう。
渋る夫をなんとか説得して、1791年2月に夫婦揃ってパリに移住します。そしてゲネゴー通りのブリタニク館にサロンを開いて、のちにジロンド派となる人々と出会い、親睦を深めていきました。知的で魅力的だった彼女はたちまち彼らの心を掴み、ジロンド派の女王と呼ばれるようになったのはこの頃です。
ジロンド派が政権を握る
1792年3月には、夫ロランが夫人の後押しで内務大臣になります。そこを契機に、サロンに出入りしていた有志たちを次々に閣僚に送り込みました。こうしてジロンド派が政権を握ることになります。
彼女は内務大臣室に自分の机を置き、美しい筆跡かつ見事な内容の文書を作成していきます。彼女の教養の深さを感じるエピソードは他にもあり、当時ライバルになっていたジャコバン派を抑えるために、ルイ16世を味方につけようと夫であるロラン名義の書簡を送っています。
もちろん、これもロラン夫人が書いたものですが、素晴らしい内容だったそうです。というのも、この国王への書簡は国会で朗読されて大喝采が起きています。ロランの人気は高まって、革命初期のネッケル財務長官にも引けを取らないものになっていったのです。
ジャコバン派に奪われた政権
1792年の秋、議会の主導権はロベスピエールやサン・ジェストらのジャコバン派に奪われてしまいます。
この両者の対立は、同年の8月10日の王政倒壊からはっきりと現れていました。ジロンド派は穏健主義派とも呼ばれて、比較的エリート層の革命家が揃っていたのです。民衆擁護を考え、急進的に革命を動かそうとするジャコバン派とは対照的なグループだったのです。
過激なジャコバン派の動きに、楽観的な雰囲気だったジロンド派はついていけなくなります。
先程も書いた通り、エリートの集まりだったジロンド派としては、教養のないガサツな庶民が革命に参加するのを嫌っていました。特にロラン夫人はジャコバン派の中核にいたダントンを、とりわけ嫌ったといいます。ダントンに教養が無かったわけでなないのですが、彼の誤解を招く言動が嫌われる要因になったのです。(ダントンはジャコバン派ですが、ジロンド派の内閣に大臣として起用された経緯があります。)
さて、少し話がダントンで脱線しましたが戻します。(ジャコバン派とジロンド派の対決を書くともっとロラン夫人から脱線しそうなので、ここの詳細についてはいつか別の記事でまとめたいと思います。)
ギロチンで処刑されたロラン夫人
政権をジャコバン派によって奪われたジロンド派の行く末は、断頭台でした。
1792年6月、派閥抗争が激化するとロラン夫人は夫や子供らを逃し、自身は逮捕・投獄されます。
恐怖政治が始まって最初の犠牲者、マリーアントワネットの処刑(1792年9月21日に執行)から2週間後には、ジロンド派の国会議員21名も処刑。
ジロンド派の実質的な指導者だったロラン夫人も、1793年11月8日革命裁判所に召喚され、ギロチンで処刑されてしまいました。
ギロチンを前にしても毅然としていたロラン夫人。最期に「自由よ、汝の名においてなんと多くの罪が犯されたことか!」と叫んで死亡します。
ロラン夫人の処刑から2日後、逃亡先で妻の死を知った夫も夫人の後を追って自殺しています。
参考文献
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- 佐藤賢一(著) 『フランス革命の肖像』
[affi id=12]
- 安達正勝(著) 『図解雑学 フランス革命』
[affi id=24]
- 安達正勝(著) 『フランス革命の志士たち』
[affi id=21]
- 佐々木真(著) 『フランスの歴史』