フランス革命といえば、マリーアントワネットやルイ16世、ナポレオンが有名ですよね。とりわけ革命家といえばダントンやロベスピエール、そしてその右腕サンジェストなどが頭に浮かぶのではないでしょうか。
今回はそんなフランス革命時、彼らに並ぶ知名度を誇った人物、フランス革命の”三大指導者”の一人、ジャン=ポール・マラーについてお話していきます。
成績優秀だが脆弱だった少年時代
「人民の友」としてフランス革命時名を馳せたマラーは、1743年5月24日スイスのヌーシャテルの家庭で誕生しました。
兄弟は6人おり、マラーは長男でした。子供の頃からとても勉強熱心で、成績は優秀。ただ、友達付き合いは苦手だったようです。
フランス王弟のお抱え医師に
マラーは出身がスイスで、同郷の先輩であるルソーにならって故郷を飛び出してフランス各地を放浪した後、イギリスにも足を運びます。
イギリスでの生活は10年続き、その間英語を学び処女作「隷属の鎖」を英語で出版するまでに至ります。しかも医師の資格もとり、なんと帰国後はあのルイ16世の弟であるアルトワ伯爵(のちのシャルル10世)のお抱え医師にまでなっています。
ここでは名士として設備の整った屋敷に住み、生活に困らない満ち足りた日々を送っていたそうです。
彼がここまで出世したのは、とある侯爵夫人の病を治したことがきっかけでした。数々の医者から見放されたこの公爵夫人の病を、マラーが治したのだとか。評判が評判を呼び、王弟のお抱え医師にまでなったのです。
貴族社会での交流を深められたのには、彼の勉強熱心さと努力があったのでしょう。
ただし、1784年には何らかの事情で彼はクビになっています。
マラーは革命時「人民の友」と呼ばれていた人物。貴族社会に馴染めなかったのか、庶民の人々を思うところがあったのか、兎にも角にも、彼は安住の生活を手放して反体制運動を行うようになります。そしてこの頃には彼自身も病にかかっていたようです。
革命指導者へ
王弟アルトワ伯爵の元を去って数年後、1789年にフランス革命が勃発します。

彼はジャーナリストとなり「人民の友」という新聞を発行。そこで過激な発言で宮廷や政府を批判する文面を投稿していきました。
もちろん警察が黙っているはずがなく、マラーは隠れながら生活する羽目になります。それでも権力者たちを批判し続け、民衆からは支持されるようになります。彼の異名「人民の友」は、この新聞からきています。
そして革命の勢いと共に力を強めていき、1792年には国民公会議員に当選します。このとき、かれは過激派とも呼ばれる山岳派(ジャコバン派)に所属しました。
ジャコバン派と言えばロベスピエールやダントンが有名です。キャラの濃いジャコバン派はやがて派内でも対立が深くなっていくのですが、そうなる以前ではマラー、ダントン、ロベスピエールの三名を「ジャコバン三巨頭」と呼んでいたそうです。


男らしく大胆なダントン、真っ直ぐな性格のロベスピエール。そしてマラーは「醜い容姿の薄汚い言葉と身なりの男」でした。
革命以前の、医師として生活していた頃は小綺麗な身なりに、そこそこの容姿であったと言われるマラー。病にかかった事と革命で奮闘していく中で、まるで人が変わったように醜悪な見た目になっていったそうです。患っていた病が皮膚病であったことも災いしていたのでしょう。
むしろ、マラーはそういった見た目の方が有名かもしれません。
マラーの暗殺(マラーの死)
熾烈な言葉で敵を批判し、しかもそれが的を得ていたことで評判・人気を集めたマラーでしたが、その過激な発言に眉を潜める人もいました。
ジャコバン派でも何かと目立つマラーは疎まれていましたが、彼はセンセーショナルにこの世から消えることになります。
1793年7月13日。マラーはコルドリエ街30番地の自宅で、皮膚病の治療のために入っていた長靴型の風呂の中で殺害されたのです。

(ジャック=ルイ・ダヴィッド画 )
出典:Wikipedia
彼を暗殺したのは、面会に来ていたシャルロット・コルデーという若い女性でした。コルデー持参していた包丁でマラーを一突き。肺動脈を穿たれた彼はほぼ即死だったと言います。

死後、マラーの葬儀は盛大に行われ、革命の殉教者として祖国の英雄が眠るパンテオンに埋葬されました。そして各公共の場には胸像が建てられたほどでした。
ただし、テミドールのクーデター後にはマラーの遺体も引き出され、共同の墓地に投げ捨てられたそうです。
その他
彼が亡くなる直前まで入っていたお風呂は、皮膚病の治療のためのもの。長靴型のお風呂というのが特徴的。彼は一日中入浴していないといけない程、病気が悪化していたそうです。