誕生
マリア・テレジアは1740年にハプスブル家を相続し、息子ヨーゼフ2世と共に19世紀のオーストリア国家の基盤を形成された女帝として知られています。

1717年、彼女は神聖ローマ皇帝カール6世と、皇后エリーザベト・クリスティーネの間に誕生しました。マリア・テレジアには他に妹マリア・アンナがいましたが、男兄弟は一人もいませんでした。男子に恵まれなかった皇帝カール6世は世継ぎ問題に悩まされ、1713年に国事詔書を発布し、女性にも相続権を与えると宣言します。
これにより1740年、カール6世が死去したのちマリア・テレジアは23歳でハプスブルク家を相続します。しかし、女系継承を認めないプロイセンのフリードリヒ2世やバイエルンなどが反論し「オーストリア継承戦争」が勃発します。
オーストリア継承戦争
当時マリア・テレジアは19歳の頃にロートリンゲン家からフランツ・シュテファンと結婚し、三人の娘がいました。戦争が始まった時にも第四子を妊娠中でした。父に先立たれ、まだ若く、味方してくれる人も少なかったマリア・テレジアですが、ハプスブルク家の継承者としてこのオーストリア帝国の分割の危機に立ち向かいます。

フリードリヒ2世は当時もっとも産業の発展していたオーストリア領シュレージエンに攻め込み、占領しました。バイエルンとザクセン軍・フランス軍らもプラハを占領しました。しかも、バイエルンのカール・アルブレヒトがカール7世アルブレヒトとして神聖ローマ皇帝として選出されてしまいます。

マリア・テレジアは出産したばかりの息子ヨーゼフを連れ、ハンガリー王へ即位する予定だったマリアテレジアは、ハンガリー議会に出向き援助を要請しました。多くの特権を約束することで、彼女は味方を作り、支援を得ることに成功。この助力を求める様子は有名なエピソードとして語られています。

マリアテレジアの母クリスティーネは大変美しい女性で、マリア・テレジアも母譲りの美貌の持ち主だったと言われています。その若く、美しい女王が生まれたばかりの赤ん坊を抱いて、切々と援助を訴えたのです。涙を流し苦しい胸の内を明かす彼女に、ハプスブルク家に反抗的だったハンガリー貴族でさえも心を動かされて軍刀を抜き「命をかけて女王を守る」と声をあげました。これによりハプスブルク家はプロイセンに反撃に打って出ます。
7年続いたオーストリア継承戦争ですが、カール7世が皇帝についてわずか三年で突然他界します。これにより幸いにも一時奪われた帝冠は無事ハプスブルク家に戻ってきました。しかし、シュレージエンは戻ってきませんでした。

実はこのシュレージエン奪還のため、マリア・テレジアは長らく敵対関係にあったフランスとの同盟を目指します。そして1756年に結ばれたブルボン家・ハプスブルク家の同盟は当時の欧州の人々を驚かせました。
このハプスブルク家とブルボン家の関係があったことから、1770年にマリアテレジアの末娘、マリーアントワネットがフランスの王太子ルイ(のちのルイ16世)と結婚が決まったのです。この会談ではマリアテレジアとロシアの女帝、そしてフランス15世の愛妾ポンパドゥール夫人が参加していました。
七年戦争
オーストリア継承戦争が終わっても、マリア・テレジアに休みはありません。長年の敵フランスと友好関係になった次は、帝国の領土であったシュレージエンを奪った憎きプロイセンに復讐しなくてはいけませんでした。

出典:Wikipedia
ハプスブルク家はロシアとフランスと手を取り、プロイセン相手に七年戦争を開始します。しかし新興国プロイセンの勢いは強く、フリードリヒ2世を追い詰めるも、シュレージエンは奪還叶わず終わります。そう、勝利したのはプロイセン側でした。これには悲運が一つあり、共闘していたロシアのエリザヴェータ女帝が突如死去してしまったことが挙げられます。彼女の後継者ピョートル3世(エカチェリーナ2世の夫)は、なんとプロイセンのフリードリヒ2世の熱狂的な信者でした。これにより、ロシアは戦争から手を引き、マリア・テレジアは有利だった戦争に敗退してしまいます。マリア・テレジアはオーストリア継承戦争以来、フリードリヒ2世を「シュレージエン泥棒」と呼んで憎悪したそうです。
良き母 良き妻として
傑物として知られるマリア・テレジアですが、彼女の魅力は手腕だけではありませんでした。国務で多忙なかたわら、夫フランツ1世との間に16人もの子供をもうけました。内6人は亡くなりますが、残り10人は立派に育て上げます。子供の多さは、自分の父が後継者に悩まされていたからこそかもしれません。(16人の子女一覧はこちら)
自分自身も女性として継承が認められず戦争に苦労したのですから、子供は多いにこしたことはなかったのでしょう。しかも、彼女の後継となった長男ヨーゼフ2世は子供に恵まれなかったため、次男のレオポルト2世が即位しています。もし男子がヨーゼフ2世だけだったら、彼女が死守してきたハプスブルク家は、違った道を歩んでいたかもしれません。

さて、夫フランツ1世とは当時の王族としては珍しく恋愛結婚でした。陽気で親しみやすいフランツ1世を、マリアテレジアの父カール6世も気に入ったと言われています。
政治的な部分はマリア・テレジアが握っていましたが、財務面では夫フランツ1世が優れた手腕を発揮します。度重なった戦争の疲弊を補ったのも、彼の抱えていた数々の工場の利益で立て直しに貢献したと言われています。
そんなお互いに支え合ってきたフランツ1世とマリア・テレジアでしたが、1765年にフランツ・シュテファンの卒中の死によって引き裂かれます。夫の死が与えた悲しみは大きく、彼女は自身が死去するまで黒い喪服しか身につけなくなりました。
改革
戦争から彼女は様々なことを学びました。強国となったプロイセンは能率的な官僚制度を持ち、強力な軍も保有していました。そこからマリアテレジアも軍制改革や政権の中央集権化に乗り出します。行政・司法・税制はもとより、学校制度についても注力しました。各地に小学校を設け、帝国内のすべての言語で教科書を作り教育させました。
まとめ
良き母、良き妻、そして愛すべき国の母だったマリア・テレジア。彼女にはもうひとつ素敵なエピソードがあります。
ある日、彼女が宮廷の庭を散策していると一人の貧しい女性に出くわします。女性の腕には乳が出なくてお腹を空かせた赤ん坊が抱かれていました。マリア・テレジアは金貨を渡そうとしますが「金貨で子供が黙るものか!」と女性は怒ります。するとマリア・テレジアは赤ん坊を抱きしめ、自分の乳房を赤ん坊に吸わせてあげたといいます。
人間味に溢れ、国と家族を愛したマリア・テレジアならではの伝説です。オーストリア国民からも親しまれ、最も多く語られる女性でもあります。
末娘のマリーアントワネットが何かと有名ですが、その母マリアテレジアが如何に偉大で魅力的な人物だったか知っていただければと思います。
マリア・テレジアの年表
1717年5月13日 |
0歳 |
ローマ皇帝カール6世の長女として誕生 |
1736年2月12日 | 19歳 | フランツ・シュテファンと結婚 |
1740年10月20日 | 23歳 | 父カール6世崩御 |
1741年3月13日 | 24歳 | 長男ヨーゼフ誕生 |
1743年5月12日 | 28歳 |
マリアテレジア、ボヘミア女王戴冠 |
1745年 | 28歳 | 夫フランツが皇帝に即位 |
1761年 | 44歳 | 国務院の創設 |
1764年 | 47歳 | 夫フランツ死去。息子ヨーゼフ2世と共同政治を行う |
1780年 | 63歳 | オーストリアで死去 |