フランス

マリー・アントワネット フランス革命における悲運な王妃/西洋史/歴史人物

マリーアントワネット フランス王妃 ハプスブルク家

マリー・アントワネットとは政略結婚により、ハプスブルク家からブルボン家・フランス王太子(のちのルイ16世)に嫁いだ女性です。

誕生

1755年11月2日、マリー・アントワネットはオーストリア・ウィーンでオーストリア大公マリア・テレジアと神聖ローマ皇帝フランツ1世との間に誕生しました。

母マリア・テレジアは神聖ローマ皇帝カール6世の娘でしたが、彼は息子に恵まれず、女性であるマリア・テレジアが王位を継承しています。この時戦争が起こるほど揉めたこともあって、子供は多ければ多いほど良い。と考えていたと思われます。そのため、マリー・アントワネットには16人の兄弟がいました。(内6名は夭折)

末っ子ということもあり、母マリア・テレジアは彼女をとても可愛がっていたそうです。ですが、男兄弟に囲まれて育ったマリーアントワネットは、家庭教師も手を焼くおてんば娘でした。マリア・テレジアはマリーをフランス王太子に嫁がせる事に、頭を悩ませていたそうです。

フランス王妃へ

ヴェルサイユ宮殿 フランス

フランス王太子との婚約が発表された時、マリー・アントワネットは11歳。母や祖母譲りの美貌を備えていましたが、わんぱくで軽率、華美を好む性格でした。

そんなマリー・アントワネットでしたが14歳の時にフランスへ嫁ぎます。結婚後、ルイ15世の公妾デュ・バリー夫人との対立もありましたが、ルイ15世の怒りや母の注意も入り、1772年の1月1日新年の挨拶で終結しました。

さて、華やかなフランスでヴェルサイユ宮殿の女主人となった彼女は、母の忠告も聞かず遊びやドレスなどのオシャレに夢中になります。

最初は民衆も華やかで愛らしい王太子妃を祝福していましたが、夫がルイ16世としてフランス国王に即位すると一変します。マリー・アントワネットとは違い、比較的地味で大人しかったルイ16世。彼は宮廷儀式を嫌い、人前に出ることがあまりありませんでした。

王としての威厳を示さないルイ16世。そして遊びに耽る王妃マリーアントワネット。国の借金は膨れ上がり、民衆には重い税が課せられました。彼らはこの苦しみをマリー・アントワネットのせいにしました。「オーストリア女」「赤字夫人」などと言われたのです。

なかなか生まれない世継ぎ

王妃としての役目に、国王の世継ぎを産むということがあります。ところが、先ほども書いたようにルイ16世は控えめな性格。対してマリーアントワネットは華やかなものが好きでした。マリーは他の貴族の男性(容姿端麗なスウェーデン貴族フェルセンが有名)に夢中でした。そんなこともあり、「王は性的不能者だ」という声やあがったり、二人が一夜を共にするのに7年かかったとも言われています。

首飾り事件

マリーアントワネット 首飾り事件
出典:
メトロポリタン美術館

マリー・アントワネットを語る上で外せない首飾り事件。1785年に起きたこの一大スキャンダルに、マリー・アントワネットの人気はガタ落ち。さらには夫で王のルイ16世にも世間から冷ややかな視線が注がれました。

この詐欺事件の首謀者は、ヴァロア家の末裔だと称するラ・モット伯爵夫人でした。

王室御用達の宝石商では、前王ルイ15世が公妾デュ・バリー夫人のために超高額の60万リーヴルの首飾りを製作していました。ところが注文主のルイ15世は突然崩御してしまい、高額の首飾りだけが残ります。困り果てた宝石商は王妃マリー・アントワネットに買ってもらえないか画策しました。しかしマリーは高価すぎる金額と、嫌悪したデュ・バリー夫人のために作られた首飾りを拒否します。

ここで宝石商から話を聞いたラ・モット伯爵夫人が登場します。

ラ・モット=ヴァロワ伯爵夫人
出典:Wikipedia

ラ・モット伯爵夫人は言葉巧みにロアン枢機卿を騙します。ロアン枢機卿は当時宮廷司祭長という位の高い聖職者であり、名家ストラスブールの出身者でした。しかし彼は聖職者にも関わらず、派手な暮らしを好んでいたのです。そんな態度がマリーの母、マリア・テレジアから嫌われていたそうです。当然、娘であるマリー・アントワネットも彼に対し冷ややかでした。

それでも、なんとかマリー・アントワネットと和解し財務総監への出世を果たしたかったロアン枢機卿。その出世欲につけ込まれ、ラ・モット伯爵夫人に狙われてしまいます。

ロアン枢機卿
出典:Wikipedia

夫人は王妃との仲をとり持つ代わりに、高額な首飾りを代理購入してほしいとロアン枢機卿に言います。街の娼婦を王妃の代わりにさせ、ロアン枢機卿に会わせたりと、念入りに騙します。王妃が偽物とは気づかず、ロアン枢機卿は信じ込んで首飾りを代理購入してラ・モット伯爵夫人に渡してしまいました。

超高額の首飾りは夫人らに解体され、ロンドンで売りさばかれました。しかし、いつまで経っても首飾りの代金が宝石商のところに来ず、堪り兼ねた宝石商は王妃の側近に事情を話して、事件が発覚します。

事件が与えた影響

この事件に激怒したマリー・アントワネットは裁判を起こします。

ロアン枢機卿と、偽の王妃を演じた娼婦は無罪。ラ・モット伯爵夫人は焼きごてを受けた上での終身刑となりました。しかし、ラ・モット伯爵夫人は民衆から同情され、マリーにばかり批判が集まります。

実はフランス国民の中では、マリー・アントワネットこそが事件の首謀者だという根も葉もない噂が広がっていたのです。これによってマリーはいよいよ国民から毛嫌いされるようになります。

フランス革命

オーストリアやプロイセンらの諸国は、王家や王朝という「旧体制」から「啓蒙時代」へ突入しようとしていました。近代国家を目指す周りに比べ、フランスはまだまだ専制政治を行なっていたのです。しかし、市民の間ではルソーなどの啓蒙思想家の考えが普及しており、次第に古い自分たちの国の体制に不満を持つようになっていました。

バスチーユ襲撃 フランス革命
バスチーユ襲撃 出典:Wikipedia

そんな中、1789年7月14日に武装したパリ市民がバスティーユ牢獄を襲撃します。フランス革命の勃発でした。バスティーユ牢獄は多くの政治犯が投獄されており、アンシャン・レジーム(旧体制)の象徴とされていたのです。そして武装するための弾薬などを、民衆が必要としたことも狙われた要因でした。

8月26日には人権宣言が出され、ヴェルサイユ宮殿にも暴徒化した民衆が押し寄せます。これにより、ルイ16世は人権宣言を承認し、マリー・アントワネットと子供達と共にパリのテュイルリー宮殿へ身柄を移されました。(ヴェルサイユ行進や十月行進とも言われます)

ヴァレンヌ事件

1791年6月、国王一家はマリー・アントワネットの実家オーストリアへの逃亡を図ります。これにはマリーの愛人であったスウェーデン貴族フェルセンが大きく関わっていました。

革命により、多くの貴族がフランスから脱出していました。マリーのお気に入りポリニャック公爵夫人なども既に、王家を見限って逃亡していました。今なら変装すれば王一家も脱出できるかもしれないと考えたのです。

ルイ16世は最初は国を捨てることに反対でした。しかし、発言権が強かったのはマリー・アントワネットの方でした。積極的に計画したのは彼女でした。しかし、移動の馬車を新調したり豪華にしたり、ドレスを綺麗にしたりとしている内に、当初の予定から一ヶ月も経っていました。

こういった事も重なり、計画を実行したものの国王一家は国境手前のヴァレンヌで捕まってしまいました。国王一家はパリに連れ戻されます。そしてこの事件で、親国王派の国民からも裏切り者として見捨てられます。

幽閉中の国王一家
出典:ニューヨーク公共図書館

断頭台で迎えた最期

タンプル塔に幽閉された一家でしたが、1793年1月、国民公会での投票によりルイ16世の処刑が決まります。そして同月に夫ルイ16世は処刑されました。

処刑台へ向かうマリーアントワネット 出典:Wikipedia

マリー・アントワネットも同じく、同年の10月16日革命広場のギロチンで処刑され、37歳でこの世を去りました。投獄されてからの彼女は、人が変わったように堂々と、母マリア・テレジアに恥じないよう気品ある行動をしていたそうです。

残された子供たち

ルイ16世とマリー・アントワネットには、合計4人の子供がいました。マリー・テレーズ(第一子長女)、ルイ・ジョセフ(第二子長男)、ルイ・シャルル(第三子次男)ソフィー(第四子次女)です。

この内長男ルイ・ジョセフは7歳、次女ソフィーは結核で生後10ヶ月で夭折しています。革命時生存していたのは長女マリー・テレーズ、次男ルイ・シャルルだけでした。弟のルイ・シャルルは父亡き後ルイ17世と呼ばれ、タンプル塔に幽閉され様々な虐待を受けて10歳で亡くなってしまいます。天命を全う出来たのは、一家の中でただ一人マリー・テレーズだけだったのです。

ABOUT ME
kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。