先日リシュリューについて記述しましたが、今回はルイ13世の母マリー・ド・メディシスです。
彼女は幼い息子ルイ13世の摂政となるものの、政治的センスは皆無。そのせいで息子と対立していきます。夫が暗殺され、息子には疎まれて、最終的にフランスから出ていかざるをえなかったフランス国王の母后マリー。
今回はそんな彼女についてまとめていきます。
生い立ち
彼女の名前から分かる通り、カトリーヌ・ド・メディシスと同じく、マリーはイタリアの富豪メディチ家の出身。彼女は1575年4月26日、父トスカーナ大公フランチェスコ1世の娘として誕生しました。
後の夫アンリ4世の前の配偶者、マグリットの母カトリーヌ・ド・メディシスとは遠縁の親戚にあたります。
現存している肖像画のマリーは大変膨よかな印象ですが、若い頃は美しく、幼い頃から縁談がひっきりなしだったそう。
マリーは5歳の時に母を、15歳の時に父を亡くしています。彼女の婚期が遅くなったのは、結婚に政治的価値が見出されていたためでしょう。マリーを誰に嫁がせれば、メディチ家は安泰か・・・。周りが思案した結果、お相手はフランス国王アンリ4世に決まるのです。
アンリ4世との出会い
マリー・ド・メディシスは27歳のとき、フランス国王アンリ4世と結婚します。
やっと結婚できた彼女でしたが、純愛とは程遠く、アンリ4世はメディチ家の結婚の持参金目当で結婚を決めたのでした。

出典:Wikipedia
マリーからすると、やっと現れた夫は女たらしで愛人を50人以上は抱えていたと言われるドスケベ王。しかも47歳と、マリーより20歳も年上です。心中複雑だったに違いありません。
おまけに、イタリアからフランスへ向かうも、アンリ4世は現れず、マリーはまさかの待ちぼうけを喰らいます。何故アンリ4世はすぐ現れなかったというと・・・なんとアンリは新妻を迎えにいくどころか、愛人と小旅行に行っていて来れないというのです。
新婚といってもこれでは前途多難の予感しかしません。
その後リヨンに到着したマリーは、やっとアンリと対面。性欲の塊ともいうべきアンリは早々に・・・ええ、マリーは直ぐに妊娠。結婚の翌年には世継ぎであるルイ13世を出産しました。(まあ、ドスケベが理由もあるでしょうが、早く世継ぎを残したい気持ちもあったからでしょうか。)
後継となる子供もすぐに生まれ、夫との関係は良好(?)そうでしたが、愛人の数が尋常ではありません。マリーが妊娠中の間、彼女の女官だったアンリエット・ダントラーグという女性も、アンリ4世の子を妊娠していたという始末。
(恐ろしいことにアンリはこの女官に惚れ込んでいて、先に男子を出産した方を妃にするとまで約束していたんだとか!:結果的にマリーの方が先にルイ13世を産んで事なきを得ています。)
結婚当時、フランス語が全く喋れなかったというマリーですが、このライバルのお蔭でコミュニケーション力をグングン上げていったようです。
夫アンリ4世の暗殺
最初は外国女と陰口を叩かれたものの、世継ぎを早々に出産し、他にも5人の子供に恵まれたマリー。人気はすぐに上昇しました。
しかし、浮気性の夫を持ったために、宮廷では寂しい思いをすることがありました。そんな彼女の憂さ晴らしは美しい宝石を買いまくること。贅沢をしている間は、寂しさを紛らわすことができたのです。ですがこの浪費が祟って持参したお金はすぐ底を尽きます。
そして結婚から10年、なんと夫アンリ4世がカトリック教徒に刺殺されてしまったのです。

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マリーにとって青天の霹靂。ドスケベではありましたが、アンリは国民から慕われる名君主でした。そんな夫に先立たれ、残されたのはまだ9歳の息子ルイ。
意外にも彼女は夫が暗殺された翌日、直ぐにルイをルイ13世として即位させました。そしてまだ子供で政治が出来ないルイに代わって摂政の座に就いたのです。
マリーの政治
ルイ13世を即位させたまでは、良かったでしょう。
名君だった夫アンリからの優秀な寵臣たちを政治を行うものの、次第にマリーは自分勝手な振る舞いをするようになります。
アンリ4世時代の宰相を罷免して、輿入れ時に一緒にイタリアからフランスにやってきていた侍女レオノーラとその夫コンチーニを補佐官に任命。明らかなエコひいきに、貴族から不満の声があがります。
しかも、アンリが気を使っていた宗教問題もこじらせてしまいます。ナントの勅令で、新教旧教両立を整えていたアンリに対し、明らかにカトリックを養護したマリー。宗教問題以外にも、敵対するハプスブルク家のアンヌを息子ルイ13世の妃に迎えて国民の反感を買います。
この息子・ルイ13世の結婚は外国との良好な関係を保つために行われたものでしたが、周りから理解を得ることはできませんでした。またルイ13世自身も(ハプスブルク家の中では美貌に恵まれていたと言われたアンナでしたが)結局愛することができなかったのです。
息子・ルイ13世との対立
やがて成長したルイ13世は政治に関心を持っていきます。しかし、いつまで経っても母マリーは自分に政治の実権を渡そうとしません。

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実権を渡さず、好き勝手する母に、ルイ13世は不満をあらわにしていったのです。マリーも自分の立ち場が危うくなっていっている事に、薄々気がついていました。そこで、三部会で見出した有能な人物・リシュリューを政治に起用し、味方につけようとします。
しかし1617年、先手を打ってルイ13世が行動を起こします。母后マリーが可愛がっていた寵臣、コンチーニの暗殺でした。(この暗殺については「リシュリュー」の記事でも記載)
ルイ13世はコンチーニを血祭りにし、その妻レオノーラも魔女として処刑。
マリーにとって、イタリアから今までずっと傍に置いていた二人が亡くなったことは、どれ程悲しいことだったでしょう。しかも、二人を殺すよう命じたのは我が息子。その息子が、今度は自分をブロワ城へ幽閉するというのです。
ここから、二人の対立の火蓋が切られたのです。もっと言えば、マリーがルイ13世の摂政となった時から対立は始まっていたのかもしれませんが。
コンチーニ暗殺は、明らかな対立の表面化といえる事件でした。
その後、ブロワ城を抜け出したマリーは反乱を起こします。が、すぐに鎮圧。
すでにマリーからルイ13世の味方についていたリシュリューに諭され、息子と一時的に和解しています。
フランスを追放される
息子と仲直りしたように見えたマリーでしたが、今度はリシュリューに不満を抱きます。そして彼をどうにか陥れようと、陰謀を企てます。
が・・・。いつでも一枚上手だったのは息子の方でした。陰謀がバレたマリーはまた幽閉の身となったのです。
二度目の脱走を果たせたものの、もうフランスにマリーの居場所はありませんでした。
その後ネーデルランド、イギリス、ドイツを巡り、1642年ケルンでマリーはひっそりと亡くなります。
息子と対立し、政治能力も高いとは言えなかった彼女ですが、当時ヨーロッパ随一の文化国家フィレンツェ出身だったこともあり、彼女はフランス文化の向上に影響を与えたといわれています。その一つが、オペラだったそう。

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ルーブル美術館には、「マリー・ド・メディシスの生涯」という24枚の連作が展示されています。先のカトリーヌ・ド・メディシスと違い、業績が少なかったことから画家のルーベンスも苦労したそうで、神話の神になぞらえるようにその軌跡が描かれています。
参考文献
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