イギリス

メアリー・スチュアート もうひとりのメアリー/悲劇のスコットランド女王

メアリー・スチュアート/恋多き悲劇の女王

悲劇の女王か、恋に狂った女か。メアリー・スチュアートについては意見が分かれるところです。イングランド女王エリザベスを比較されることの多い女性であり、様々な題材にも取り上げられている彼女を、今回はまとめていきたいと思います。

生い立ち

メアリー・スチュアートは1542年12月8日、スコットランド王ジェームズ5世と王妃のメアリー・オブ・ギーズの長女として誕生しました。

父ジェームズ5世は30歳で急死し、生まれて一週間足らずのメアリーがスコットランド女王として王位を継承します。

ジェームズ5世は、叔父のヘンリー8世との戦に疲弊したため病死したとも言われています。

彼が亡くなると、イングランド王ヘンリー8世は、生まれたての赤子メアリーを自分の一人息子エドワードと結婚させようと考えました。そうすれば簡単にスコットランドを手に入れられると考えたからです。

メアリーの母、メアリー・オブ・ギーズは名前の通り、フランス貴族ギーズ公家出身でした。幼い我が娘を恐ろしいヘンリー8世から守るため、故郷のフランスに助けを求めます。

こうして母の提案が功を制し、メアリーはフランス王アンリ2世の嫡男フランソワの婚約者になることになったのです。

美しきフランス王妃

スコットランドから脱出し、1548年からメアリーはフランス宮廷で育てられます。

未来のフランス王妃は、大切に育てられ美しい少女に成長していきました。

わずか6歳の花嫁候補。母の元を離れた寂しさはあったものの、当時のフランスはヨーロッパ一華やかな場所でした。彼女はたちまち宮殿の人々を虜にしました。才色兼備のメアリーには、親戚のギーズ家もついています。

恐れるものはないお姫様。未来の夫となるフランソワとも仲が良く、何も心配することがないように感じられたでしょう。

フランソワとメアリー/メアリー・スチュアート
フランソワとメアリー 出典:Wikipedia

そして1558年4月24日、メアリーはフランソワと結婚し、正式に王太子妃となります。翌年7月10日にはフランソワの父アンリ2世が不慮の事故で死去し、フランソワが王位を継承しました。これにより、メアリー・スチュアートはついにフランス王妃となったのです。

エリザベス1世との関係

話が少し戻りますが、メアリーが結婚式を挙げた同年、彼女の運命を左右するエリザベス1世もイングランド女王に即位していました。

イングランド女王エリザベス1世 イギリス 歴史 人物
出典:Wikipedia

エリザベスの母はヘンリー8世の二番目の妻であり、不義密通の濡れ衣を着せられ処刑されていました。そして娘であるエリザベスは王女から庶子として扱われてきた経緯があります。

彼女が即位すると、アンリ2世はこの王位継承に反対しました。庶子よりもヘンリー7世のひ孫であるメアリー・スチュアートの方が、正当な王位継承権があると抗議したのです。

これにはエリザベス1世も怒りを覚え、そしてメアリー・スチュアートを危険視するようになっていきます。

絶頂期の終わり

そんな、エリザベス1世に抗議していたアンリ2世が不慮の事故で亡くなった時のこと。

生まれつき病弱だった夫フランソワ1世は、父の無残な死にショックを受けて寝込んでしまいます。彼はアデノイドという耳鼻咽喉科系の先天性の持病を抱えていました。

20歳までは生きられないかもしれない夫。早く子供を得なければ自分の立場が危うい・・・。そう考えていたメアリーにとって気が気ではなかったでしょう。

そして1560年12月、中耳炎を悪化させて16歳という若さでフランソワ1世は亡くなります。フランス国王になって僅か1年のことでした。

子供を作れなかった王妃には、厳しい現実が待っていました。

フランソワの母后カトリーヌ・ド・メディシスが、ついに実権を握ったのです。メアリーはこの義母を身分の卑しい人として見下していたため、夫が亡くなるとこれ見よがしにメアリーはこの義母によってフランスから追放されます。

フランスを去るメアリー
フランスを去るメアリー 出典:Wikipedia

誰もが羨む華やかなフランスから、貧しい田舎のスコットランドへ帰らなければならなくなったのです。

恋多きスコットランド女王

1561年8月に故郷へ戻ってきたメアリー。これまでスコットランドで摂政をしてくれていた母も半年前に亡くなっており、女王として親政を行わなければいけませんでした。

しかし、18歳の少女は帝王学を学んでおらず、政治どころか失ったフランスでの生活を惜しみ、ただたた取り巻き達と暮らすだけの日々を送っていました。

そんなメアリーは美しい女王で、18歳の未亡人。おまけにフランス帰りの教養を身に着けていたので、求婚が跡を絶たなかったのです。

ライバルであるエリザベス1世からすれば、もしもメアリー・スチュアートがどこかの有力な貴族と結婚すれば、また自分の地位が危うくなる。なんとかそれだけは阻止せねばと、裏工作に余念がありませんでした。

けれどメアリー・スチュアートは、努力家のエリザベスが思う程政治力のある女性ではありませんでした。

メアリーは周囲の反対を押し切って、ダーンリー卿と1565年7月に結婚します。

ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート
ダーンリー卿ヘンリー・ステュアート
出典:Wikipedia

ダーンリー卿は金髪青眼の美男子で、テューダー家の血を引いた由緒ある家柄の男性。メアリーはこの時23歳、夫となったダーンリーは19歳でした。

メアリーは彼のわがままを色々と聞いてやり、ダーンリー卿も有頂天になってふんぞり返ります。勿論周りからは反感を買い、そのうちメアリー自身も、この見た目だけで中身のない夫に辟易してゆきました。

メアリーは次の恋人に、イタリア人音楽家リッチオを寵愛するようになりました。

リッチオ殺害事件 メアリー・スチュアート/恋多き女
リッチオ殺害事件 出典:Wikipedia

しかし事件が起こり、妬んだダーンリー卿は臣下を連れてメアリーの前でリッチオをめった刺しにしてしまったのです。実はこの時メアリーのお腹には後のジェームズ1世がいました。

流産の危機は免れ、無事にジェームズを出産したものの、父親は誰かということで揉めます。メアリーは関係の冷めきっていたダーンリーに、自分の子だと認めるよう説得する羽目になったのです。

3度めの結婚と廃位

メアリーはその後も相手を探し、スコットランドの名門貴族ボスウェル伯爵と付き合い始めます。夫ダーンリー卿と違い、男らしく勇ましいボスウェルにメアリーは夢中になります。そして恐ろしいことが起こったのです。

1567年2月。天然痘の病にかかり臥せっていたダーンリー。その休んでいた屋敷が爆破されたのです。

信じられない出来事ですが、ダーンリーは首を締められて殺害され、犯人により屋敷を爆破された、というのです。事件の首謀者はボスウェルとメアリーでしょう。そして二人は何食わぬ顔で、事件から数ヶ月後の1567年5月に結婚します。

流石にこのずさんな事件で周りの不信感も爆発します。反ボスウェル派の貴族らによって反乱が起きたのです。戦いに破れたボスウェルは亡命、メアリーはロッホ・リーヴン城へ監禁さて、ついに廃位されました。

イングランドへ亡命

命からがら脱獄したメアリー。どこへ逃げ込もうか考えた末、なぜか敵視されているはずのエリザベス1世の元へ彼女は向かいます。ここからも、彼女の政治力の無さ、”普通の女性”感が現れています。

母を処刑され、庶子として扱われ、義母姉から一度ロンドン塔へ投獄され、紆余曲折の末に女王となったエリザベス1世とは、やはり違いました。

エリザベスにしても、あれだけ「正式な王位継承権は私にある」と主張してきた張本人が、いまさら自分に助けを求めるなど思っても見なかったでしょう。

いや、それどころかやっと手にした平穏を、目の前のメアリーがぶち壊そうとしているのです。未だ自分の継承権を認めない貴族がいます。その貴族らが結託し、メアリーを筆頭に反旗を翻すかも分かりません。

頭の痛い課題を突きつけられたエリザベスは、それでも彼女を隣国の女王として丁重に扱いました。ロンドンから離れたところへ住まわせ、幽閉したとはいえ、比較的自由に過ごさせたといいます。

しかし、1569年から始まったこの幽閉は、メアリーから美しさを奪っていきました。幽閉当時26歳。それが10年、20年が過ぎ、気づけば40代になっていました。

メアリー・スチュアートの処刑

幽閉の間も、なんとか脱出しようとあの手この手を施してきたメアリー。しかし、フランス宮廷でのんびり育ち、自国では男たちに夢中になっていた彼女が今更策略を練ったところで上手くいきません。

そして1587年、エリザベス暗殺計画が露見して、ついにメアリー・スチュアートに処刑宣告が下ります。

メアリー・スチュアートの処刑
メアリー・スチュアートの処刑
出典:Wikipedia

かくして、その年の2月8日。メアリー・スチュアートは首を切られました。死ぬ時まで「女王」を演出し、死に装束もとびきりセンスのよいものを着込んでいました。ペチコート(下着)まで真紅にするこだわりを見せましたが、その演出が過ぎて周りを動揺させ、彼女の首は一発では切れず三度も振り下ろされたそうです。

こうして、45歳の生涯を閉じたメアリー。悲劇の女王というに相応しい人生でしたが、彼女の息子ジェームズはエリザベスのあとを継ぎ、イングランドの王となります。そして皮肉にも、結婚せず子孫を残さなかったエリザベスに対し、メアリーの直系子孫がイギリスを統治していくのです。

参考文献

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  • 水井万里子(著)『図解テューダー朝の歴史』 河出書房新社 2011

[affi id=14]

  • 中野京子(著)『残酷な王と悲しみの王妃』2010 集英社
  • 鹿島茂(著) 『「ワル姫さま」の系譜学』2010 講談社
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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。