「英雄の中の英雄」19世紀ヨーロッパで絶大な人気を誇ったナポレオン・ボナパルト。貧しい貴族の生まれだったナポレオンが、いかにしてフランス皇帝にまで登りつめたのかを解説していきます。
誕生
1769年、イタリア半島の西に位置するコルシカ島で、父カルロ・マリア・ブオナパルテと、母マリア・レティツィア・ラモリーノの間に生まれます。
ナポレオンが生まれる前、父カルロはコルシカ独立戦争に参加していました。この戦争でカルロはフランス軍に寝返ります。そして結果としてコルシカ島はフランスに合併され、寝返りの見返りとして彼はフランス貴族の資格を得ました。
このことからナポレオンはフランス国籍を持ち、フランス本土の貴族が通う士官学校への入学を許されます。
学生時代
幼少期から陸軍学校へ通い、1784年に士官学校へ入学します。この学校はフランス国王ルイ15世が建てたものと言われています。
学生時代の彼は生まれ育ったコルシカ島の訛りが抜けず、フランス貴族の学友からは馬鹿にされていました。小柄で身分も低かったことからいじめらたそうです。
友人が少なかった彼は、その分熱心に勉強しました。特に数学は抜群の成績を収め、これがのちの戦争での部隊配分に役立ったのかもしれません。そして学科は士官学校花形の騎兵科ではなく、砲兵科を選んでいます。伝統や憧れだけでなく、実力を見出せる場所と思って選んだようです。
いじめられっ子というと気弱そうなイメージもありますが、ナポレオンはどちらかというと短気で、喧嘩っ早い性格であったと言われています。
学校卒業後は砲兵士官として任官しています。これはフランス革命が起こる4年前のことでした。
フランス革命
ただ、フランス革命が起こった時ナポレオンはそれほど興味を示しませんでした。彼はコルシカ島の生まれで、生粋のフランス人ではなかったからです。しかし、この革命が広がればいずれ植民地だったコルシカ島の人たちも、フランス人として平等に生活出来るのではないかと考えました。革命の理念が「自由と平等」を掲げていたからです。
その後、ナポレオンはフランス共和国軍に入隊します。フランス革命が起こり、王政が倒されると周辺諸国は自国にも飛び火するのではと恐れていました。そして各国がフランスに進撃していきます。
1794年には革命の指導者だったロペスピエールが処刑されます。国外だけでなく、フランス内も混沌としていました。この時ナポレオンもロペスピエールの弟と親交があったとして逮捕されますが、反乱が発生して難を逃れます。この後、得意の大砲で反乱を制圧しました。
ジョセフィーヌとの結婚
1796年、ナポレオンはイタリア方面軍司令官となります。この年3月には愛妻ジョセフィーヌとの結婚を叶えています。

ジョセフィーヌはナポレオンよりも6歳年上で、子連れの未亡人でした。フランス革命で生活に困っていた彼女は、総裁政府のポール・バラスの愛人でした。そんな時、社交界に出入りしていたナポレオンに出会い、彼から熱烈に求愛されます。
最初は無骨で小柄、華もないナポレオンを面倒くさい男と思っていたようで、結婚後も美しかったジョセフィーヌは浮気相手を作っていました。
そんな彼女にナポレオンも恥をかかされ一度離婚を切り出します。この離婚騒動があってからジョセフィーヌは真剣に、ナポレオンを愛するようになっていったのです。
連戦戦勝の英雄ナポレオン
トゥーロン攻囲戦で見事な作戦を打ち立て、成功させます。ナポレオン自体も足に負傷しましたが、この功績を讃えられて少佐相当の地位を得ます。これが無名だった彼を有名にした戦いでした。
オーストリアとの戦いでも、イタリア軍側についたナポレオンは連勝を重ねオーストリア軍を北イタリアから撃退します。
そして1797年12月5日にパリに凱旋。フランスを危機から救った英雄として、ナポレオンは民衆の大歓声を浴びました。混乱が続く革命の中誰もが望んだ英雄、それがナポレオン・ボナパルトだったのです。
ブリュメールのクーデター
しかし、戦っても戦っても革命の混乱は続きます。議会ではブルジョワ(中級階級)の議員たちがただ惰性的に話し合っているだけでした。これに短気でもあったナポレオンは痺れを切らします。
彼は軍隊を率いて会議を掌握したのです。1799年11月9日。軍が政治を行えば自由平等が奪われると、議員たちは反対しましたが、ナポレオンは彼に味方する議員だけを選び、総裁政府から実権を剥奪します。クーデターでした。
統領制を樹立させ、ナポレオンは自ら第一統領となります。これによって、フランス革命は終息しました。それと同時にナポレオンの独裁も始まったのです。
統領となってからも戦うナポレオン
クーデターを起こし、第一統領となっても問題は山済みでした。1800年4月、ナポレオンは二度目のイタリア遠征に向かいます。オーストリアを孤立させるために、アルプス山脈を超えるナポレオン軍。この際、寒さと険しい山道で疲弊する兵士にナポレオンは「不可能という文字は、愚か者の辞書にのみ存在する」と叫んだと言われています。

出典:Wikipedia
こうしてアルプスを超え、オーストリア軍を撃破。1801年2月9日にはオーストリアと和平条約を締結させます。フランスの国力を見せつけられた各国、ロシアやイギリスもフランスと和平条約を結びました。
平和をもたらしたナポレオン
ナポレオンの勝利は、フランスに王政の解放と平和をもたらしました。国内だけでなく、外国人に与えた影響も大きく、ウィーンに暮らす作家ヴェートーベンも、ナポレオンのために交響曲「ボナパルト」という曲まで作曲したほどです。(ナポレオンが皇帝になった際にはタイトルを「英雄」に変えています)
国々の争いを収めたナポレオンは、次にフランス国内の改革に乗り出します。貧困に喘ぐ民衆のために、街のインフラを整えて食料を運びやすくします。衰退しきった工業などの産業復活にも尽力します。フランス銀行も創立し、暴落した貨幣の安定も目指しました。
この忙しさから、ナポレオンの睡眠時間は3時間程度、食事は15分だったという話もあります。が、実際は計算高いナポレオンが効率的に工藤するためにも、しっかりした睡眠を行なっていたという説もあります。
1804年3月21日、ナポレオンは「フランス人の民法典」(ナポレオン法典)を公布します。それまで統一された民法がなかったフランスにとって、個人の財産を保障する法も打ち出しました。これも、ナポレオンの人気を高めました。
ナポレオン、皇帝に即位する。

ナポレオンを不動のものにしようと、国民の議会・国民投票で彼を皇帝に即位させようと決まりました。投票は賛成357万2329票、反対2569票という圧倒的な支持のものと行われました。1804年8月2日のことです。
1804年12月2日にナポレオンは「フランス人の皇帝」として即位します。
ヨーロッパに君臨する
その後もナポレオンは戦場に訪れ、アウステルリッツの会戦を行います。これらを撃破し、ヨーロッパを支配していきました。イギリスを除く大半を手中に収め、弟ルイをオランダ王に、兄ジョセフをナポリ王にしました。
1806年、ドイツを支配下に置いたことでライン同盟が結ばれ、ハプスブルク家を除くドイツ諸侯国が加盟します。これにより神聖ローマ帝国は事実上の終焉を迎え、アウステルリッツ会戦にも参加していたフランツ1世は、1438年からハプスブルク家が継いで来た神聖ローマ皇帝の帝冠を手放したのです。
この、フランツ1世の娘マリー・ルイゼが1810年、ナポレオンと政略結婚します。これには両者の考えがあり、ナポレオンは王家と婚姻関係を結び、対ロシア戦に備えようとしたのです。フランツ1世も、ひそかにフランスへの王政復古を期待したものでした。
忘れてはいけないのは、ジョセフィーヌのことです。ナポレオンには妻ジョセフィーヌがいましたが、彼女との間に子供が産まれなかったのが離婚の大きな原因でしょう。皇帝となり世襲していかなければならないのに、子供がいないのは具合が悪いと周囲にも打診されてのことでした。
離婚を聞かされたジョセフィーヌは、その場で意識を失い倒れたと言われています。勝利の女神と呼ばれた良妻、ジョセフィーヌとの離婚は波紋を広げます。そして、この辺りからナポレオンの絶頂に陰りが見えてくるのです。
帝国の崩壊
1812年。ロシアへの遠征で、ナポレオンは大敗します。開戦当初60万いた彼の軍は、敗退時には1パーセントの約5000人だったと言われています。ロシアの自然や地理を生かした戦略で、徹底的にナポレオン軍から体力を削ぎ落としっていったこの戦争、ロシア側では「祖国戦争」とも呼ばれています。

出典:Wikipedia
この惨敗を受け、ヨーロッパ諸国はナポレオンを見限り1813年10月、ライプツィヒにオーストリア、プロイセン、ロシアなどの同盟軍が集結。フランス軍は倒され、翌年の1814年4月に同盟軍がパリを陥落させました。
ナポレオンも無条件に帝位を剥奪されます。そして年金を渡されエルバ島へ隠退となります。再びエルバ島を脱して皇帝に返り咲くこともできたのですが、ワーテルローの戦いで敗北してしまいます。
投降したナポレオンは南大西洋の孤島セントヘレナへ島流しに。そして1821年5月5日、病死しています。(毒殺説もあり)