オリバー・クロムウェルは知らなくとも、「清教徒革命・ピューリタン革命」という言葉は、学校の教科書でも出てきて知っているのではないでしょうか。
オリバー・クロムウェルは、この革命の英雄とも呼ばれている、イギリスで有名な英雄です。
今回はそんなオリバー・クロムウェルについてまとめていきます。
生い立ち
オリバー・クロムウェルは1599年4月25日、イングランド東部ハンティンドンシャーのジェントリ階級の家に生まれました。
高祖母キャサリンの兄弟に、ヘンリー8世の政治的片腕として活躍したトマス・クロムウェルがいます。名家ではありましたが、没落しつつあり、身に応じた生活をするのが精一杯という資産しかなかったそうです。
1615年、ケンブリッジ大学に進学し、徐々にプロテスタント革命派へとなっていきます。
この学生時代は父の死と同時に終わりを迎えます。1617年に学生生活を切り上げて、オリバーは故郷へ戻りました。
平凡な生活と結婚
一家の大黒柱となったクロムウェルは、母と姉妹たちを養いつつ、法律を学び始めます。そこでエリザベス・バウチャという女性と出会いました。彼女と恋仲になり、やがて結婚。

出典:Wikipedia
家計は相変わらず頻拍していましたが、この妻エリザベスはロンドンの毛皮商人の娘で、その父は騎士に叙された程の有力者でした。
彼女により、オリバーはプロテスタント革命派のバリントン家、シンジョン家、リッチ一族と政治的なつがなりを得ることに成功しています。
そして1628年、庶民院議員となります。しかし、政治家としてパッとするところがなく、収入も満足に得られず、最終的に政治的対立に敗れてしまいます。
家も手放し、もはやジェントリとは言えない身になり、地元の治安判事をして細々と生活するはめになったのです。
政治への返り咲き
そんなクロムウェルは1640年、再びケンブリッジ市から議員に選ばれて、政治の世界へ戻ります。
この頃には母方の伯父のかなりの額の遺産を相続しており、それなりに良い生活を送っていたそうです。
そしてこの1640年というのは、11年間も行われなかった議会が開催された年でもありました。
イングランド王チャールズ1世は即位後、議会と対立しており、議会を解散させて専制政治を進めていました。しかし財政は圧迫され、国王がしぶしぶ議会の開催を決行したというわけです。
この議会に、オリバー・クロムウェルは数少ない議員の一人として選出されます。
議会では穏健派と急進派の対立が生まれました。前者は、国教会の信徒。後者はオリバー・クロムウェルを含むピューリタンから形成されています。
さらに、前者は国王派(騎士派)、後者は議会派(円頂派)と呼ばれたそうです。
クロムウェルは熱心なプロテスタントであり、攻撃的な政治姿勢を貫いていました。対立する国教会制度に対しても激しく非難し、一時は議会への出席を禁止されそうになったほど。
はじめの頃は目立つ存在ではなかったクロムウェルですが、こうした姿勢から徐々に人々の注目を集めていきます。
内戦勃発
1642年、ついに両者の衝突は内戦へと変わっていきます。
クロムウェルはピューリタンを率いて鉄騎隊を編成。1644年にはマーストン・ムーアの戦いで勝利をおさめます。そして1645年にネーズビーの戦いで、敵対する王国派に壊滅的なダメージを与えることに成功します。
この勝利には、彼の宗教的信念が貫かれていたことが要因でしょう。
クロムウェルは兵士を募る時、当時当たり前のように重要視されていた「階層構造」を完全に無視し、熱烈なプロテスタントであれば受け入れるというものだったのです。
この同志意識のため、オリバー・クロムウェルは部下たちを褒め称え、そして部下たちも彼を慕ったのです。
こうして国王軍を敗北に追いやり、なおも粘るチャールズ1世に対してオリバーは戦い続けました。
転がり始めた内戦の勢いは、ついに革命へと変わっていったのです。
国王の処刑とクロムウェルの独裁
この争いので多くの血を流させたのは国王の罪であり、責任を取るべきであるとして、チャールズ1世は議会派に捕らえられていました。
1648年12月27日、ウィンザーに幽閉されたチャールズ1世は、もはや国王として扱われなくなっていたのです。そして翌年1月27日の裁判で、チャールズ1世の処刑が下されました。
判決がでてわずか3日の1月30日午後2時ごろ、バンケティング・ハウスに臨時の断頭台が設置され、国王チャールズ1世の死刑が執行されました。

出典:Wikipedia
中心人物となっていたクロムウェルは、イングランドの共和国樹立を宣言します。
しかし、権力を握るとやがて独裁者として振る舞うようになります。1653年に最高統治権を有する護国卿に就任すると、ピューリタンのみを優遇し、他のものを弾圧する姿勢を見せたのです。
オリバー・クロムウェルの首
そんな彼も病には勝てず、1658年にインフルエンザ(またはマラリア)により病死しました。
その後、イングランドでは王政復古が起こり、チャールズ1世の息子チャールズ2世が国王として即位します。
我が父を罪人として処刑させられた息子の怒りは当然高く、チャールズ2世は病死したクロムウェルの墓を掘り返し、絞首刑に処し、さらに八つ裂きにしてクロムウェルの首をロンドンで20年以上も晒し続けたそうです。
現在彼の首は数奇な運命を経て、彼の出身校に埋葬されたと言われています。
追伸
走り書きでかなり省略してしまったところがあるので、ゆくゆく追記していきたいと考えています。(今までの記事でも下記足りてない人が数人いますが・・)記事をもう少し量産できれば、そういう部分にも着手していきたいと考えています。
冒頭でピューリタン革命にも触れたのに、本文中に書き出せなかったのも心残り。ピューリタン革命については、先日のサン・バルテルミの虐殺のように、別記事でまとめた方が良いかなとも考えています。(2019年3月23日『ピューリタン革命』について記事をUPしました)