ポンパドゥール夫人は、フランス国王ルイ15世の公式な公妾として知られています。
生い立ち
旧姓をジャンヌ・アントワネット・ポワソン。彼女は1721年にパリの銀行家の娘として誕生しました。そして成長し、1741年には徴税請負人のルノルマン・デティオルと結婚。超一流のサロンに通い、様々な文化人との交流を深めました。
その美貌と社交性、そして頭脳明晰だった彼女はルイ15世と出会い、その寵愛を受ける事になります。
ルイ15世とポンパドゥール夫人の関係は わずか5年ほどでしたが、政治に無頓着だったルイ15世に代わり、彼女が宮廷内での権勢をふるいます。このことから、当時は「ポンパドゥールのフランス」とまで呼ばれるようになったのです。
戦争とポンパドゥール夫人
優れた政治家であったフルーリー枢機卿が亡くなった後、ルイ15世自ら親政を行います。ただ、この時フランスが直面していたのは、オーストリア継承戦争でした。
オーストリア継承戦争は、親政ローマ皇帝カール6世が亡くなり、その娘マリア・テレジアが跡を継いだことが事の発端でした。女性の王位継承を認めなかった諸国と、オーストリアとの戦争です。元々オーストリアとフランスは不仲で、ルイ15世もオーストリアと敵対しました。
ルイ15世率いるフランスはスペインと組み、オーストリアとその援軍イギリスと対決します。アーヘンの和約によってこの戦争は収まりますが、フランスには何のメリットも残らない結果となってしまいます。そして1756年に再び七年戦争が起こります。フランスはイギリスと対決し、またも不毛な戦争に付き合うのでした。
しかし、オーストリアの宰相カウニッツは「敵はフランスではなく、プロイセンだ」とマリア・テレジアに助言します。カウニッツを信頼していたマリア・テレジアはこれをのみ、フランスとの同盟への道を探します。

出典:Wikipedia
1756年に、ついにそれが叶います。オーストリアの女帝マリア・テレジア、ロシアの女帝エリザヴェータとフランス国王の公妾ポンパドゥール夫人が揃い、プロイセン打倒に向け結託しました。女性3人が揃ったことで、「3枚のペチコート作戦」とも呼ばれています。当時敵対していたフランスとオーストリアが手を結んだ事に、ヨーロッパ中が驚きました。まさに外交革命ともいえるこの作戦を、公妾のポンパドゥール夫人が行ったのです。また、この両者の和解のために、後にマリア・テレジアの末娘、マリー・アントワネットがフランス王室へ嫁ぐことになりました。
その後の夫人
体を壊し、30歳で公妾を辞めたポンパドゥール夫人でしたが、ルイ15世とは死ぬまで友人として付き合いがありました。自分に代わり王を満足させるため「鹿の園」という娼館を建て、王を満足させたとも。
そして42歳の頃、ポンパドゥール夫人はベルサイユにて死去。彼女の死を悲しみ、ルイ15世は涙を流したと言われています。
余談
ポンパドゥール夫人はセーヴル陶器をこよなく愛したとしても知られています。頻繁に陶器工場に通ってアドバイスしたり、監督する程熱を入れていたそうです。

鮮やかなピンク色の陶器は「ポンパドゥールのばら色」とも呼ばれています。