ピョートル1世は「ピョートル大帝」とも呼ばれた、現代ロシアの基礎を築いた支配者です。この記事では、そんなピョートル1世についてまとめていきます。
生い立ち
ピョートルは1672年5月30日に父アレクセイ・ミハイロヴィチと2番目の后妃ナタリヤ・ナルイシキナの子として誕生しました。
1676年に父が死去し、異母兄フョードル3世が即位するものの、在位6年目の1682年死去します。そのため、ピョートルが幼くして即位します。政権は母方のナルイシキン家が握ることになりました。
ところがピョートルが即位してすぐ、フョードル3世の弟イヴァン5世を利用して政権維持を目論んだミロスラフスキー派がストレリツィ蜂起を起こします。この時ナルイシキンの有力者が殺害され、ピョートルらは格下となりイヴァンの共同統治者となりました。
このイヴァン5世は精神障害があったため、名ばかりの統治者と考えられています。
幼いイヴァンとピョートルの摂政を務めたのは、イヴァンの同母姉のソフィアでした。
少年時代、外国人たちとの交流
なので、ピョートルは実母とともにモスクワ郊外に移り、儀式の時だけクレムリンを訪れていました。
少年時代のピョートルは近くにあった外国人村を度々訪れ、様々な外国人らと交流を持ちます。この時に西欧への関心と、近代的な考えを持つようになったのかもしれません。
1689年には、母の勧めでエヴドキヤ・ロプーヒナを妻に迎えます。
が、ピョートルはあまり彼女に関心がなく、関係は良好なものとは言えませんでした。
ピョートルの成長と期待
妻を迎え、大人への段取りを整えていくピョートルに、周りは自ずと期待していきます。
それというのも、イヴァンとピョートルの摂政を行なっていたソフィアの評判が、徐々に落ちていたからです。主な実権者にヴァシーリー・ゴリツィンがいましたが、露土戦争の一環・クリミア遠征の失敗によって、その信頼を失いつつあったのです。
1689年9月、ソフィアは政治から身を引かざるを得なくなりました。
1694年にピョートルの母が死去し、1696年には共同統治者であったイヴァン5世も亡くなります。それまでまだ外国人ら仲間と馬鹿騒ぎして楽しく過ごしていたピョートルでしたが、いよいよ単独でロシアを統治していくことになります。ピョートル24歳の時でした。
偽名まで使ったヨーロッパ視察
翌年の1697年から98年にかけて、ピョートルは約250人の従者を連れて、ケーニヒスベルク、ベルリン、アムステルダム、ロンドンを回ります。
この間ピョートルは「ピョートル・ミハイロフ」という偽名を使っています。これは自由に行動するためでもありました。

この視察中、彼はいち船大工として働いたり、時計を作ったり、歯科医療まで熱心に勉強したそうです。
ピョートルは2メートル近い巨漢であり、怪力の持ち主だったので、肉体労働も苦にならなかったのかもしれません。むしろ、生き生きと楽しんだのかもと思います。
北方戦争
1699年、ピョートルはポーランド王やデンマーク=ノルウェー王と反スウェーデン同盟(北方同盟)を結びます。
当時のスウェーデンはバルト海を中心とする、北東ヨーロッパを手中に収めていました。
ピョートルが結んだ反スウェーデン同盟は、バルト海への出口を求めた結果でした。
1700年、北方の巨人スウェーデン相手に勃発した北方戦争では、ナルヴァの戦いでカール16世の少数軍に惨敗してしまいます。
が、軍の強化を図り、ポーランドとの戦争に追われていたスウェーデンを、1709年のポルタヴァの戦いで倒すことに成功します。

これによってロシアはバルト海の覇権を握り、全ヨーロッパにロシアの存在を知らしめる結果になりました。
サンクト・ペテルブルク建設
様々なことを学び、ロシアが世界に比べ遅れていると痛感したピョートルは、国内の軍事・税制・産業・行政・文化に至るまで改革を行いました。
中には大貴族たちにも課税をする、廷臣や役人は正装は西洋的な正装を義務づけるなど様々でした。
また、「聖ペトロの町」というドイツ語名サンクト・ペテルブルクの建設にも乗り出します。

出典:Wikipedia
沼地や荒れた野原・獣が跋扈していた暗い森が広がっていた場所は、西欧風の町に生まれ変わっていったのです。
貿易港としても機能して、1712年に工事が完了するとピョートルは翌年この町に遷都して、貴族や商人たちを住まわせました。
大規模な事業だったため、ほかの石材建築は禁止され、地盤が弱かった土地は幾度も洪水の危機に晒されました。この建設に、労働者たちは幾万と犠牲になったのです。
こうして建てられた新都は、彼が望む「ヨーロッパへの窓」となっていったのです。
皇帝の称号を名乗る

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1721年11月2日、北方戦争での大勝利から、ピョートルは西欧的な「インペラトール(皇帝)」の称号を元老院から贈られています。
皇帝に権力を一元化させ、ロシアはロシア帝国となっていくのです。
まとめ
個性が強く、また家族には冷たかったピョートル1世。貴族に有利な政策が多かったため、貴族らからは支持されたかもしれませんが、新都建設の際は多くの市民を犠牲にしてきました。
名君ととるか暴君ととるか、意見は別れるかもしれませんが、ロシアを大国にして名を知らしめた業績は大きいでしょう。
彼については情報が多く書ききれてない部分があるので、また今度記事を書けたらなと思います。
参考文献
- 図解ヨーロッパの王朝 加藤雅彦 著
- ビジュアル世界史1000人下巻 宮崎正勝 著