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始皇帝について 中国史上初の皇帝になった男/中国史/歴史人物

始皇帝 中国統一した皇帝

始皇帝とは前259〜前210年 中国・秦の王であり、中国を統一した中国史上初の皇帝です。

誕生

始皇帝の父の子楚(しそ)は秦の王子でしたが、趙の国の人質にされていました。王子といっても、子楚は王位継承から遠く、人質の価値も低いものとされていました。始皇帝、、、この時は政(せい)という名前でした。

政はそんな子楚と、呂不韋が連れてきた女性趙姫との間に生まれます。

呂不韋は、不遇な王子子楚を秦の王にするために画策する裕福な商人でした。王子に恩を売っておけば、いずれ更なる出世があると目論んでのことです。趙で冷遇されていた子楚にとって、呂不韋の献身的な態度は嬉しかったでしょう。子楚は王になった暁には呂不韋を優遇しようと約束します。

そして趙姫ですが、こちらは元々呂不韋の愛人でした。ですが、子楚が見染めたために妻として迎えられたのです。この時、既に趙姫のお腹には政がいて、実の父は呂不韋では?と囁かれています。現代医学ではこれを否定しているそうです。

父の死と王位継承

さて、呂不韋の計らい通り子楚が秦の王になります。ところが王位に就いて三年で父子楚が死去します。この時政は王位を継承しますが、まだ13歳の少年でした。政治的なことは周囲に任せる他なく、その中でも相邦として政治のトップになったのが呂不韋でした。

太后と愛人とクーデター

太后となっていた母趙姫ですが、淫蕩な彼女は再び呂不韋と男女の関係になっていました。しかし、政治の実権を握っていた呂不韋にとって、バレれば文字通り命取りになりかねません。そこで、嫪毐(ろうあい)という愛人を趙姫に与えます。

男子禁制の宮にいた趙姫のために、宦官(かんがん;去勢した官吏、男性のこと)と偽り嫪毐と合わせました。趙姫は嫪毐を気に入り、二人の子供までもうけいていました。

更に嫪毐は政への謀反も企てていました。太后の偽の印章を作り、軍を動かそうとしたのです。このクーデーターが発覚し、嫪毐と太后は政の前に突き出されます。いつの間にか子供まで作っていた事に、政は激怒します。万が一その子供が成長すれば、自分の王位が危うくなることもあったからです。

太后は宮殿に監禁。二人の小さな息子は処刑。嫪毐は車裂きの刑(八つ裂きの刑)に処せられました。この時嫪毐は21歳でした。また、政は母と嫪毐の関係を密告によって察知しており、クーデターへの対策も行なっていたとされています。そして嫪毐のクーデターも、太后との関係や自分が偽の宦官ということがバレて起こしたものとも考えられます。

罰せられたのは彼らだけではありませんでした。元々嫪毐を太后に差し向けたとして、呂不韋も追放処分になります。そして子楚親子の立役者でもあった呂不韋でしたが、自分の行く末に絶望し、追放の翌年服毒自殺してしまいました。

始皇帝へ

紀元前221年、政は中国を統一します。39歳の時でした。中国では「王」という名称でしたが、政は新たに「皇帝」という名称を作りました。始めの皇帝ということで始皇帝。正確には秦始皇帝とも。新しいものが好きで、人とおなじものを使いたくないという考えがあったから、新しく作った名称を、歴史に刻みたかったのでしょう。

焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)

始皇帝を語る上で外せないのが、この焚書坑儒でしょう。これ故に彼が暴君として伝わっているのです。簡潔に言うと、焚書とは医学・占い・農業に関すること以外の書物を焼却処分したこと。坑儒とは、儒者を生き埋めにしたことです。

これには呂不韋の後釜である李斯(りし)が、周からの封建制度を否定し郡県制を推し進めたことが理由です。世襲制の封建制度ではなく、中央政権を行おうという目論みです。

李斯の言い分としては、封建制度によって戦が絶えず起こり、それらを一掃したのに、また同じことを繰り返すのかというものです。

忠誠心とは皇族に注ぐものではなく、ただ一人「皇帝」へのみ注ぐものとすると李斯は考えました。封建制度では王族が地方の統治者となっていました。だからこそ勢力の奪い合いが起こったのだと。李斯は皇帝が中央政権を握り、そこから遣わされた役人たちを統治者にしようと考えました。あくまでもトップは皇族ではなく、皇帝そのものでなければならないと。

これに、一部の儒者たちが反論しました。李斯も儒者たちが古い言い伝えに執着し、今の政権を否定していると対抗しました。

これにより、始皇帝は先程の焚書を実行します。貴重な史料も多数失われ、需講の経典六経のうち楽経(音楽の書)が失われたともあります。また、詩や書について集団で議論する者がいれば処刑し、現代を批判する者も一族皆殺しという恐ろしいものでした。

そして坑儒ですが、不老不死を求めていた始皇帝はその霊薬を方士や儒者たちに探させていました。しかし、そんなものがあるはずもなく、始皇帝への不満をぶちまけた彼らは逃亡してしまいます。激怒した始皇帝は関わった者やその他の儒者たちに尋問し、最終的に罪のなすり付け合いとなり儒者460人が穴の中に生き埋めにされました。

これが、始皇帝を暴君とされる最大の理由です。しかし始皇帝は同時に、貨幣の統一や度量衡の統一、万里の長城の建設など、数々の功績も立てました。

始皇帝の最期とその後

中国 秦を不動のものにした偉大な始皇帝も、死からは免れませんでした。不老不死を模索した彼でしたが、ついに病にかかり亡くなります。

彼は不老不死に効き目があると言われていた水銀を、数年にわたり服用していました。実際の水銀にそういう効果はありません。むしろ体に害を及ぼす液体です。彼は自分の墓、始皇帝陵の地下にも庭を作り、そこに水銀の川を作ったと言われています。

重宝していた水銀ですが、これが始皇帝の寿命を縮めたのはいうまでもありません。

始皇帝の死後ですが、長男扶蘇に宛てた遺書や、皇帝自身の死もしばらく隠蔽され、末の子胡亥が二世皇帝となります。しかし、優秀で温厚・人々の信頼も厚かった長男を自殺に追いやり、政治にも無能だったこの胡亥は、だんだん人々から嫌われていきます。そして彼を除く皇族は次々に処刑されました。始皇帝の子ら公子12人・公主10人も命を落とします。兄弟だけでなく、親戚に至るまで処刑したと言われています。

この傀儡の皇帝胡亥は、趙高の起こした反乱によって捕えられ、自殺に追い込まれました。その後を継いだ子嬰も捕えられ、秦は三代で滅亡したのです。

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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。