フランス

リシュリュー フランス絶対王政の礎を確立したナンバー2

フランス国王ルイ13世に仕えたリシュリュー

フランス王室の歴史の中で、トップを支えたナンバー2は誰かと聞けばリシュリューの名前があがるのではないでしょうか。聖職者にして大政治家。国王の信頼も厚く、ルイ13世・14世と続くフランスの絶対王政の基礎を作ったとも言われる程の人物が、リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシーです。

今回はリシュリュー枢機卿についてまとめていきます。

生い立ち

1585年9月9日、王宮に仕える小貴族の三男坊としてリシュリューは誕生します。

彼の父はアンリ3世の宮廷裁判官を務めていました。リシュリュー家は代々司教の座についていたため、リシュリュー自身も聖職者の道を歩みだします。

若い頃のリシュリューは軍人を目指していたそうです。ですが、聖職者の地位を跡継ぎだった兄が放り出したため、やむなくリシュリューが引き受けたそうです。

この軍人になりたかった夢が、もしかしたら後の政治や戦争で活きたのかもしれません。

国王ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスの対立

さて、リシュリューは1614年に身分制議会「三部会」に聖職者代表の一人として選抜されます。そしてこの時の活躍でルイ13世の母后マリー・ド・メディシスの目に止まり、そのまま国政の舞台へ上がります。

丁度この頃、フランス国王ルイ13世は成人宣言を行っており、王として親政できる年になっていました。しかし、母マリーが摂政・実権を息子に渡そうとせず、両者は徐々に対立していたのです。

1617年4月には、マリーの腹心コンチーニがルイ13世の腹心によって暗殺されています。コンチーニの妻も魔女として処刑されたことにより、マリーとルイ13世両者の争いは表面化。リシュリューはマリー側に立っていたことで追放・失脚してしまうのです。

元々、国王をないがしろにし、好き勝手する母后とコンチーニに周りからの人気はありませんでした。殺害されたコンチーニの遺体はパリの群衆にズタズタにされ、晒し物にされます。それを見たリシュリューは難を逃れるため「国王に対する忠誠である」と、彼らに味方しています。自分はマリー側の人間だが、国王の敵ではないとアピールするかのように。

さて、一度は罷免・追放の憂い目をみたリシュリューでしたが、1619年にブロワ城へ幽閉されていたマリーが脱走。そしてマリーはそのまま反乱の指導者へとなったのです。

我が母親の行動に、王も頭を抱えたのか、マリーの側近のリシュリューに助力を求めました。いがみ合っているとは言え、産みの親です。真っ向から戦うのは気が引けたのでしょう。熱り立つ母を説得するには、リシュリューの知恵を得るしかありませんでした。

こうしてリシュリューの仲裁により、ルイ13世と母后マリー・ド・メディシスは和解し一時休戦となります。

最初はリシュリューを疑っていた王も、この一件から彼を徐々に信用していきます。(1622年のリシュリュー国務会議入りをマリーが提案した時は、王は拒絶しています。が、その後のリシュリューの出世ぶりをみると母に反抗しての態度だったのかもしれません。)

リシュリュー、宰相へ。

さて、王の信頼を一身に受けていたリュイヌ公が1621年に死去。そこからリシュリューは枢機卿になり、1624年には宰相の地位まで昇りつめます。

枢機卿となってから、リシュリューは1626年に国内の兵士が失われないよう、無益な決闘を禁止。翌年のラ・ロシェル攻囲ではリシュリューは王と共にプロテスタント(新教)と対立。ときには甲冑を着けて戦闘指揮にあたることさえあったそうです。

ルイ13世とは意見が食い違うこともあったのですが、直ぐに信用と必要性を認められて良好な関係を築いていました。

しかし、これを面白くないと考える人物がいました。勿論、ルイ13世の母后マリーです。

自分のお気に入りだったリシュリューが、気に食わない息子の元で活躍しているのです。しかも外交政策でも何かとマリーに反対する彼を憎く思い始めたのです。

怒りが溜まってきた彼女は、1630年11月リシュリューの宰相職を解任しようと王を説き伏せにかかったのです。

鉄の意志

体は弱い部分があったものの、小貴族の生まれからフランス宰相にまでなったリシュリュー。

母后の陰謀というこの最悪な事態も切り抜けようとしました。

自分の危機をすぐさま察知して、国王に罷免を取り消すよう訴えかけたのです。結局王はリシュリューに味方して形勢逆転。リシュリューは宰相罷免をまぬがれ、逆に母后一派は逮捕・更迭などされ敗北を叩きつけられたのでした。

リシュリューを陥れようとしたこのクーデターは「欺かれた者たちの日」と呼ばれています。もちろん、この欺かれた者はマリーを指しています。

これ以降、マリーが表舞台に出ることはありませんでした。彼女はコンピエーニュに幽閉され、またも脱出。その後はネーデルランド、イギリス、ドイツを巡り、1642年ケルンで亡くなります。

その後もリシュリューに反対する勢力が出てきましたが、彼は反乱を粉砕して厳罰・死刑にかけます。

彼の鉄の意志は凄まじく、少しでも政治的分離が伴うならば宗教ももなんのその。

聖職者であるにも関わらず、そしてユグノーとの宗教対立でもカトリックとして戦ったにも関わらず、国外ハプスブルク家打倒のためにプロテスタントを支援して戦う程です。(フランスはカトリック国だったので相当異例なことだったでしょう。)

激務に悲鳴をあげる体

多くの陰謀、戦争、財政難、反乱。彼を取り巻く環境はいつも熾烈でした。晩年のリシュリューの体は肝臓疾患・神経痛・浸蝕性潰瘍・癌性疲労など様々な病気を患いボロボロになっていました。

死の直前にも彼を陥れようとするサン=マール候の陰謀がありましたが、撃退。彼を逮捕して処刑しています。これが彼にまつわる最後の陰謀となったのです。

死期が近づいたことを察知したリシュリューは、後継者としてマゼランを指名します。彼も後の太陽王ルイ14世の元で政治的手腕を振るう人物でした。

名宰相リシュリューは最期に

”私は、国家の敵以外に敵を持ったことがなかった”

山田昌弘(著)『世界ナンバー2列伝』2013年 社会評論社

と言い残し1642年12月4日、自宅で息を引き取りました。国王ルイ13世も、彼のあとを追うように1643年5月(リシュリューの死から僅か半年後)結核により死去しています。

涙もろく、好意的な人間にはとことん愛を注ぎ、そうでない人間にも公平に接したというリシュリュー。神と王に仕えた、まさに激闘の生涯でした。

参考文献

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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。