フランス革命と言えば、ルイ16世やマリーアントワネット、ナポレオンを連想する人が多いでしょう。そして、その次にあがるのがロベスピエールだと思います。
生い立ち
マクシミリアン・ロベスピエールは1758年5月6日、北フランスのアラスで生まれます。
ロベスピエール家は代々法曹家(法律家)を生業にしていて、祖父も父も弁護士でした。
妹が2人、弟が1人いましたが、ロベスピエールが6歳の時に母親が難産で死去。(この時の子供も死亡しています)ショックを受けた父も身を持ち崩してそのまま失踪してしまいます。
ロベスピエールはわずか10歳で、父の代わりに一家の長になって小さな弟妹の面倒をみていたのです。
学生時代
彼の成績は優秀で、学校一の成績優秀生となります。それにより奨学金を得て生まれ育ったアラスから、パリの名門校ルイ=ル=グラン(ルイ大王校)へ進学します。ここでも抜群の成績をおさめたといいます。
実はロベスピエールが在学中、ルイ16世が即位聖別式の帰りにこの学校を訪れています。その際ロベスピエールはラテン語の祝辞を読み上げていました。まさかのちにこの王の裁判に関わるとは、信仰心に厚かった彼は想像も出来なかったでしょう。

また、この時分にロベスピエールは当時流行った啓蒙思想に傾倒していきます。特にルソーについては実際に訪問して学ぶ程でした。
その後も順調にパリ大学に進学し、法学修士号などを取得して、故郷アラスに帰って弁護士となっています。
無名の弁護士時代から革命の代表者へ
「弱い立場、抑圧された人々、貧しい人たちを擁護する以上の崇高な仕事があるだろうか?」という言葉を残す程に、ロベスピエールという人は真っ直ぐで清廉潔白の人でした。
アラスでも高い評価を得ていたロベスピエールは、1789年に三部会議員選挙にアルトワ州第三身分の代表として立候補して当選します。(地元では評判の弁護士でしたが、この頃のヴェルサイユではまだまだ一介の地方弁護士でしかありませんでしたが…。)
そんな民衆の立場になって演説するロベスピエールの考え方は先進的過ぎて、同僚たちからは支持されることはありませんでした。後の恐怖政治からは想像ついにくいかもしれませんが、当時の彼はギロチンの死刑廃止を訴えたり、自由・生命・家族のために法による保護を求める権利などを唱えていたのです。
腐敗しない男
恐怖政治を行い始めるのは、公安委員会に入る一ヶ月前からのことです。1793年6月2日に反対勢力のジロンド派を追放して権力を勝ち取ると、革命の最高責任者となります。(ロベスピエールが属していたのはジャコバン派側)
政治腐敗を嫌ったロベスピエールは、そのストイックな姿勢から「腐敗しない男」とも呼ばれました。身だしなみも振る舞いもとても紳士的だったロベスピエールは、大変女性にモテたそうです。ですが生涯独身で、生涯女性を知らなかったともあります。
そんな彼も、フランス革命の大きな渦に巻き込まれていくのです。
恐怖政治

元々、恐怖政治は民衆が求めていたものでした。バスチーユ襲撃から始まる民衆の怒りは、そう簡単に抑えることが出来なかったのです。
当時の民衆は、「第一身分や第二身分の者たちが自分らを不当に苦しめてきたのだ。それを暴力的な手段で懲らしめるのは正義だ」という感覚がありました。
彼自身も「徳なき恐怖は忌まわしく、恐怖なき徳は無力である」とまで言うようになり、1794年2月にはヴァントーズ(風月)法を可決します。これは彼の右腕サン=ジェストにより提案された法律で、亡命した貴族のや反革命分子の土地を没収し、無償で貧しい農民らに分け与えるというものでした。
そして大きな革命という波に、ロベスピエール自身も考え方が変わっていきます。革命裁判所を設け、反対派は異分子として次々とギロチンへ送り出します。
この革命裁判所自体は1793年3月に、九月虐殺事件を教訓に建てられたものでした。それがいつしか控訴や上告なく最終判決が下されるようになっていきました。革命防衛の施設が、政敵排除に利用されるようになったのです。これによって約2800人(無実の人も含む)の人間がギロチンへ消えていったのです。
テミドールのクーデター
どんどん政敵を排除していったロベスピエールですが、エベール派と反恐怖政治だった「寛容派」のダントン派まで断頭台に送ってしまいます。
政敵ではありましたが、彼らは共に革命を支え合っていたメンバーでもありました。支持の地盤を失ったロベスピエールは、やがてひたすら処刑が続き疑心暗鬼に陥った議員たちから狙われるようになります。
それがテミドールのクーデーターでした。
主要なメンバーはフーシェ、バラス、タリアンら。1794年7月27日に決行されたこのクーデーターで、ロベスピエールやサン=ジェスト、クートンらが逮捕されます。数時間後に彼らは国民衛兵隊に救出されるも、深夜には再びクーデター派に捕らえられました。
そして翌日28日、ロベスピエールらは自身らが行ったように、裁判を受けることなくギロチンで処刑されました。この中には、ロベスピエールの弟もいて「兄と運命を共にする」と自ら刑に臨んだといいます。
こうして、1793年から一年続いたロベスピエールの独裁は終わったのでした。
余談
1793年10月5日に制定されたものに、「革命暦」というものがありました。
先に話したヴァントーズ法やテミドールのクーデーターの名称は、この革命暦から命名されたものです。




参考文献
- 図解雑学 フランス革命 安達正勝(著)
- ビジュアル世界史1000人上巻 宮崎正勝 (著)