フランスに大きな影響をもたらした思想といえば、啓蒙思想でしょう。啓蒙思想は元々はイギリスが発祥の地でしたが、平民を理不尽な権利から解き放とうという考えが、やがてフランスに浸透していきます。今回はその思想に大きく影響したルソーについて、まとめていきます。
生い立ち
ジャン=ジャック・ルソーは、1712年6月28日スイス・ジュネーブの町で生まれました。
スイスといえば時計大国。ルソーの父イザーク・ルソーもまた時計職人でした。中間層の身分ではありましたが、ルソーが生まれてわずか9日目にして美しかった母シュザンヌ・ベルナールが死去します。
父から学び、7歳の頃には様々な小説を読破する子供に成長したルソーでしたが、その父も彼が10歳の頃に失踪してしまいます。
一家離散となり、孤児同然になってしまったのです。
貧困に苦しんだ少年時代
ルソーには兄がいましたが、父の失踪と共に行方しれずとなりました。まだ10歳だったルソーは、やがて母方の叔父の元で生活するようになります。
ただ、ここでは身に覚えのない虐待などを受けた上、奉公に出された先でも日常的に虐待を受けたそうです。
この影響か、彼は次第に素行の悪い少年へと形成されていきます。仕事をサボったり、盗みを働いたり、嘘をつくような子供になっていったのです。
ヴァランス夫人との出会い
1728年3月14日、15歳になったルソーはついにそんな彼らの元から逃げ出しました。
門限を過ぎて体罰が恐ろしかったのも理由でした。
同月の21日、ルソーはフラフラとさまよっていましたが、運命の女性に出会います。

ヴァランス男爵夫人は、15歳のルソーを屋敷に入れて世話をするようになります。この時夫人は29歳。生まれた時に母を亡くしていたルソーにとって、優しい彼女は母のように映ったのでしょう。そして美しい彼女に恋をしたとも回想しています。
ただ、ルソーはなかなか定職につくことができませんでした。素行の悪さが直らず、どこへ行っても追い出されてしまいます。
しかし、周りの人間関係には恵まれたようで、ジャン=クロード・ゲームという助任司祭などは、不良少年であったルソーを諭す言葉をかけたり、援助してあげたといいます。ルソーの悪事はなかなか直りませんでしたが、のちにルソー自身がゲームに当時について感謝を表しています。
さて、ヴァランス夫人と出会い、彼女の支援で音楽学校に入ったり神学校へ通うようになったルソーですが、学生生活も長続きしません。やがて彼はヴァランス夫人とも離れることになり、再び放浪することになります。
パリへ向かう
音楽が好きだった彼は、それで生計を立てようとしていました。ですが他人の悪巧みに乗せられそうになっているところを保護され、パリへ向かうことになったのです。
ここで彼が見たパリは不衛生極まりない都市でした。それもそのはず、当時のパリは糞尿は窓から投げ捨て、川は汚水まみれ。悪臭が漂い、貧困した人々が暮らす不浄の土地でもあったのです。
彼は離れるように歩き、やがてフランスの農村部へ向かいました。
そこでルソーは美しい自然と、重税に苦しむ人々に出会います。これがのちに彼の中での啓蒙思想に繋がったのでしょう。彼はここでしばらく働き、そしてまたヴァランス夫人と再会します。
ヴァランス夫人の愛人へ
粗悪な少年だったルソーも、1732年には20歳になっていました。そして、母親譲りの美しい容姿が周りの女性から持て囃されるようになります。そんなルソーを心配したヴァランス夫人はついに、ルソーと男女の関係になっていったのです。
愛しい女性ではありましたが、ルソーにとっては母のような人でもあったヴァランス夫人。結ばれたとはいえ、複雑な心境だったようです。
さて。ルソーはこの頃薬品事故に遭い、命の重さを悟ります。
フラフラとしていた彼でしたが、幼い頃から大好きだった読書に没頭します。やれる事を、やれるうちにやっておきたくなったのでしょう。
次から次へと学習し、大量の本を読破して、急激に教養を身につけていきます。哲学書も多数読み、ここからいよいよ哲学者らしくなっていきます。そんな彼を、ヴァランス夫人も擁護したといいます。
決別
しかし、そんな慈しみをもって接してくれていたヴァランス夫人とも、ルソーは決別することになります。
1737年、夫人が新しい愛人を連れてきたのです。
もちろん夫人と愛人とルソーの仲が良くなるはずがなく、ルソーの方から決別を提案します。ただし、以前のような不良少年の様子はなく、夫人のためにもルソーはパリで出世して酬いようと思うようになっていたのです。
夫人も、笑顔で見送ったことでしょう。
奮闘の日々
独立後は家庭教師などをして、音楽家を目指そうとしたルソー。1742年(30歳の頃)には新しい記譜法を発表しますが、これが鳴かず飛ばず。
生活も苦しく、引きこもってばかりでしたが、ドゥニ・ディドロという友人が出来、社交界に参加したりしていました。この社交界にはあのヴォルテールも姿を見せていたそうです。(ディドロは、百科全書を編集したり、ロシアの女帝エカチェリーナ2世と交流した人物です。エカチェリーナ2世は啓蒙君主としても有名です。)
ルソーはやがてホテルの女中テレーズと出会い、子供ももうけます。ただ、生活に困窮していたことや、当時のフランスは捨て子に溢れていて、例に漏れずルソーも我が子らを孤児院の戸口に捨てたそうです。(この事については後に彼は後悔しています)
荒んだ生活を送った彼でしたが、これまでの経験がとある論文になって開花していきます。
学問芸術論
1750年、ルソーは科学アカデミーの懸賞論文の課題に衝撃を受け、友人ディドロの後押しを受けて論文を書き上げます。
これはまさに専制君主を批判して、人は人らしい自然の導きに従うべきで、学びは良識に結びつけるものだと論破しました。学問や文化が発展するに伴い、個人の自由がなくなり、文化は君主が人々を順応させるための策だという考え方は、如何にも啓蒙的考え方でした。
これが懸賞論文の一等に輝き、ルソーは一躍有名になります。

この論文を皮切りに、ルソーは目覚しく創作に花咲かせます。音楽家としても生計を立てようとしていて、1752年に作曲した曲が国王ルイ15世の心に響きます。
ただし病気を患っていたルソーは国王との拝謁を辞退。友人ディドロからも周りからも非難されますが、啓蒙思想の哲学者でもあった彼にとって、あまり好ましくない機会だったのかもしれません。
人間不平等起源論の発表
1753年に、再びアカデミーの懸賞論文に投稿します。これは彼の初めての大作となりました。この『人間不平等起源論』は、先の『学問芸術論』に対する、ルソーなりの答えでもありました。国王の圧政から人民へ権利を転換させるという内容は、当時では先進的過ぎました。が、これがのちの政治思想の中核になり、フランス革命にも繋がっていったのです。
さて。翌年には内縁の妻テレーズを連れ、故郷ジュネーブに帰っています。が、ここでのルソーの評価は芳しいものではありませんでした。
また、あまり仲の良くなかったヴォルテールがジュネーブで暮らすことを決めていたので、2人はまたパリへと戻ることになります。
ルソーはデピネという夫人からモンモランシーという、パリから離れた田園地帯に小さな邸宅を貰い受けます。ここでも執筆活動を行い、『政治制度論』や『社会契約論』『エミール』などを書き進めました。
晩年

『エミール』の一部が危険思想とみなされてから、彼の人生はまた変わっていきます。
出版が取りやめられ、1762年6月9日にはルソーに逮捕状が出されてしまいます。支援者の忠告で故郷へ逃れようとするものの、ルソーへの迫害が始まっており、結局スイスのモチエ村という所へ逃げていきます。
実はこの村はプロイセン領にあり、当時の王は啓蒙世君主フリードリヒ大王でした。何とか隠遁が叶った彼でしたが、同年に母代わりであったあのヴァランス夫人が亡くなります。親孝行が叶わなかったルソーは嘆きますが、世間からの迫害は続きます。
やがて命の危機も感じ、逃亡生活を続ける中で1768年、長年連れ添ったテレーズと結婚。しかし人間不信を患い、精神的に不安定にもなっていたルソー。
1778年7月2日、著名人となった彼は結局、生前は一度も裕福な生活をすることなく、66歳で病死したのです。
参考文献
- 図説フランスの歴史 佐々木真(著)
- ビジュアル世界史1000人上巻 宮崎正勝 (著)