フランス

サン=ジェスト フランス革命「恐怖政治の大天使」

サン・ジェスト フランス革命の人物

女性と見間違えられるほど美男子だったサン=ジェスト。何より最年少の理論家・革命家だったため、今でも人気が高い人物です。そんな彼には美貌と熾烈な革命運動から「死の大天使」「恐怖政治の大天使」というあだ名がついています。

今回はフランス革命の最中、ロベスピエールの右腕として登場し断頭台に消えていった彼についてまとめていきます。

生い立ち

ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストは、1767年に農民出身の軍人ルイ・ジャンと、母マリー=アンヌ・ロビノとの間に生まれました。

父ルイ・ジャンは大変な努力家で、当時は貴族しか士官になれなかった時代であったにもかかわらず、30年も軍隊で努力し大尉に昇格、騎士(ナイト)の称号まで得た人物でした。

ただし、ロビノとの結婚は遅く、サン・ジェストが10歳の時にルイ・ジャンは他界してしまいました。

革命前

ハンサムで頭が良く、行動力もあったサン=ジェストは1788年にランス大学法学部に入学すると、1年足らずで学士号を取得。その翌年1789年には『オルガン』というエロチックな長編詩を地下出版しています。

優秀な青年という印象が強いですが、革命前のサン=ジェストは恋愛事件を起こしていたり、不良少年として感化院に放り込まれたりしています。その流れから『オルガン』はふしだらな作品かとも思われそうですが、ただのスケベな風刺歌ではなく、彼なりに当時の圧政を批判するひとつの手段として書かれたものでした。

勿論、そんな国や教会を批判するような作品を出したとなれば、警察が動きます。サン=ジェストはおたずね者として追われることになります。

最年少議員が国王処刑の決定打を出す

1790年8月19日、ロベスピエールを絶賛する手紙を送ります。故郷で革命運動を始めたサン・ジェストにとって、先進的な国会議員だったロベスピエールこそ救世主のように思えたのでしょう。

情熱のまま突き進み、やがて25歳でサン=ジェストも国民国会議員に当選。とにかく、若かった。この時ルイ16世が裁判にかけられようとしていたのですが、最年少議員サン=ジェストの演説デビューはまさに、この国王裁判問題の最中行われました。

国王を処刑するか否かで、議会は割れていました。そんな時、サン=ジェストの若く鋭い演説が注目されたのです。

いかなる幻想、いかなる習慣を身にまとっていようとも、王政はそれ自体が永遠の犯罪であり…国民全体の無知蒙昧さによっても正当化され得ない不法行為のひとつである。…人は罪なくして国王たり得ない。…国王というものは、すべて反逆者であり、簒奪者である

安達正勝(著)『図解雑学フランス革命』2010 ナツメ社 3

若かったからこそ出た言葉だったのではないかなと思います。この時、彼が初めて国王を「犯罪者」呼ばわりしたのです。

この熾烈で強烈な演説に、周りの心も揺さぶられました。結果、たった1票差で国王の処刑が決まったのです。そう、サン=ジェストこそフランス国王ルイ16世の処刑を決定づけた人物といえるのです。

恐怖政治の大天使

クールで真っ直ぐな青年の夢は、母国を理想的な国へと立て直すことだったのでしょう。その真っ直ぐすぎる姿勢は、やがて訪れる恐怖政治でも冷徹に貫かれます。

ロベスピエールの右腕となっていた彼は、恐怖政治のさなか、次々と人々を処刑台へ送っていきました。

しかし、強すぎる勢力は反対されるもの。1794年にサン・ジェストが提案した「ヴァントーズ法(風月法)」は、同士らには受け入れられたものの、革命の反対者の財産を没収することも含まれていたからか、プレーヌ派(反ロベスピエール派連合)との決裂のきっかけを招いてしまいます。

また、彼が所属していたジャコバン派は、恐怖政治の中自らの首を締めるように反対する派閥を粛清し続けた結果足元がグラつき、結果的に1794年7月27日のテルミドールのクーデータが起こってしまいます。

これによって尊敬していたロベスピエールが逮捕され、サン・ジェストもクートンらと共に逮捕されてしまったのです。

彼らがスピーディーに今まで人々の首を刎ねたように、彼らの死も逮捕の翌日と早かった。1793年7月28日、ルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュストは26歳という若さでギロチンによって処刑されたのでした。

参考文献・おすすめ書籍

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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。