トマス・モアと聞くと、ヘンリー8世や著書の『ユートピア』がキーワードとして出てきます。有能な政治家であり、文学にも勤しんだ彼ですが、最期は仕えたヘンリー8世によって処刑されます。
今回はそんなトマス・モアについてまとめていきます。
生い立ち
1478年2月7日、ロンドンの裕福な法律家の家にトマス・モアは生まれました。
聖アントニー校で学んだあと、オックスフォード大学でギリシャ語や国際共通語だったラテン語を学びます。そして法律学校で法律を修めて法律家となります。
1504年には下院議員に当選し、政治家として活躍もしています。
法律家という顔だけではなく、人文主義者としても才能を見せます。1510年にイタリアのピコ・デラ・ミランドラの伝記『ピコ伝』を発表。1516年には自身の代表作『ユートピア』を執筆します。
また、ルネサンス一の人文主義者と謳われたネーデルランドのエラスムス(カトリック司祭・神学者、哲学者)とも親交を深めています。
トマス・モアは敬虔なカトリック信者でもあったため、エラスムスともヘンリー8世とも相性が良かったのかもしれません。
トマス・モア著『ユートピア』

出典:Wikipedia
ユートピアと聞くと、理想郷というイメージが湧くかもしれませんが、ここでいうユートピアとはギリシャ語で「どこにもない場所」と「善き場所」を合わせたモア独自の造語です。
トマス・モアの『ユートピア』は架空の島を舞台に、自由と平等が成り立ち、戦争のない理想的な社会を描いています。またその中でイギリスやヨーロッパ諸国に対する批判や、問題提起も匂わせていました。
ヘンリー8世からの信頼
そんな『ユートピア』発表の一年前、1515年からイングランド王ヘンリー8世に仕えるようになります。
ヘンリー8世もカトリック教徒であり、モアは彼から厚く信頼されるようになりました。1521年には騎士(ナイト)の称号を得、1529年には官僚のトップ大法官にまで登り詰めます。
しかし、この辺りから彼を取り巻く状勢は変化していったのです。
国王の離婚問題
ヘンリー8世の記事でも書きましたが、この頃王は最初の妃と離婚し、愛人のアン・ブーリンと再婚したいと考えていました。
しかし、ローマ教皇を巻き込んでの離婚問題は難航します。ましてトマス・モアは先程も述べたように純真なカトリックきょうとでした。離婚が正当なものとは断じて思えず、モアは王と対立するようになります。
後継問題に必死になっていたヘンリー8世は、自身もカトリック教徒でしたが教会と対立します。これに失望したのか、1532年5月16日にトマス・モアは官僚最高位の大法官職を辞任しました。
反逆罪として見せしめに処刑される

しかし、これが国王への反逆としてモアは1534年4月17日、ロンドン塔に幽閉されてしまいます。
昔、国王が若かった頃、カトリックを否定するマルティン・ルターを否定し「信仰の擁護者」と賞賛された時がありました。モアが、王の宗教上の重要な右腕であった頃です。
その王が、カトリックから離脱し、モアを処刑しようというのです。
信頼し、信頼し合っていた両者の決別。トマス・モアにとっても受け入れがたいことだったはず。
それでも彼は国王の忠誠より、神への信行を貫きます。
「国王の僕(しもべ)であってもまず神の僕である」
水井万里子(著) 『図解テューダー朝の歴史』 河出書房新社 2011年
1535年ロンドン塔で斬首刑に処せられたトマス・モアが残した言葉だそうです。
斬首された首は見せしめのため、ロンドン橋に晒されました。この処刑は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と言われています。
カトリック信仰を最後まで貫いたトマス・モアは、1935年教会の殉教者として列聖されています。また、政治家と法律家の守護聖人となっています。
参考文献
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- エディング(編)『世界とつながる イギリス断片図鑑 歴史は細部に宿る』株式会社自由国民社 2018
- 水井万里子(著)『図解テューダー朝の歴史』 河出書房新社 2011 ※ヘンリの妻クレーフェのアンとキャサリン・ハワードの写真が逆になっている間違いあり。
- 指昭博(編)『ヘンリ8世の迷宮ーイギリスのルネサンス君主』昭和堂 2012