ロシア

エカチェリーナ2世 ロシアと自身のために奮闘した女帝/西洋史/歴史人物

エカチェリーナ2世 ロシア皇帝

夫婦は妻が強い方が良く回ると言いますが、エカチェリーナ2世もそうでした。

生い立ち

エカチェリーナ2世は、1729年に北ドイツの小貴族、アンハルト・ツェルプスト家のアンハルト=ツェルプスト候クリスティアン・アウグストと、ヨハンナ・エリーザベトの長女として生まれました。(洗礼名はゾフィー・アウグスタ・フレデリーケ)

美人とまではいかなかったようですが、とても勉強熱心で頭も良かったようで、人として魅力ある人間になれるよう努力した女性でもあります。

ロシア皇太子妃へ

1745年、ロシア皇太子ピョートル3世と結婚し、ロシア皇太子妃となります。

エカチェリーナ2世と夫
皇太子夫妻と小姓 出典:Wikipedia

ロシア語の習得にも熱心で、同年にはロシア正教に改宗して、名前もエカチェリーナ・アレクセーエヴナに改名しています。

ロシアに慣れようと懸命に努力するエカチェリーナに、国民もエリザヴェータ女帝も好感を持ちます。

しかし、夫であるピョートルは違いました。

ピョートルも実はエカチェリーナと同じドイツ育ちでした。ロシア国民や貴族に支持されるために頑張る妻とは正反対で、ピョートルは幼稚で遊び好き。しかもエリザヴェータ女帝が嫌うプロイセンを好んでいて反感を買っていたのです。

冷めきる夫婦仲

対照的な皇太子夫婦の中が冷めきるのは時間の問題でした。

おまけにピョートル3世は男性能力に劣り、二人には長期間何もなかったのです。その間、エカチェリーナは多くの愛人と寂しさを紛らわすようになっていました。

愛人は12人いたとされ、彼らとの間に子供も授かっています。(公にはピョートル3世の子としていたようですが。)寵臣にポチョムキンがいて、彼がエカチェリーナの生涯の夫として彼女の公私ともにパートナーだったと言われています。(彼との間に生まれたのが、エリザヴェータ・ポチョムキナです。)

ピョートルは手術により男性機能を取り戻しますが、エカチェリーナに振り向くことなく別の女性を寵愛するようになります。

こうして夫婦仲は完全に破綻していったのです。

ピョートル3世の即位・失政

エリザヴェータ ロシア女帝
ロシア女帝
エリザヴェータ・ペトロヴナ
出典:Wikipedia

1762年1月にエリザヴェータ女帝が死去します。これに伴い、皇太子であったピョートルが正式にロシア皇帝になりました。

しかし、彼は大失態を犯してしまいます。

この時、ヨーロッパではプロイセンと敵対するオーストリアとその同盟国が戦争を行なっていました。ロシアもオーストリア同盟国として、打倒プロイセンと意気込んでいました。

亡くなったエリザヴェータはプロイセン王フリードリヒ2世嫌いで知られていたのですが、新しくロシア皇帝となったピョートルは真逆。フリードリヒ2世を深く敬愛していたため、あろうことか手のひらを返しプロイセンと攻守同盟を結んだのです(ブランデンブルクの奇跡と呼ばれています。)

この時、プロイセンは四方から攻め込まれて王手をかけられていました。あと少しで負けるというところへ、このロシアの同盟が起こったのです。

この行動は国内だけでなく、諸国からも反感を買います。特にプロイセン打倒に燃えていたオーストリアのマリア・テレジア辺りは苦虫を噛んだような気持ちだったでしょう。

エカチェリーナ2世が皇帝へ

そんな中、エカチェリーナの周辺では反ピョートル派が集まります。

頼りないピョートル皇帝を倒し、ロシアに忠実なエカチェリーナを皇帝にしようという動きでした。

そして1762年、エカチェリーナの愛人オルロフを中心とした近衛連隊が政変(クーデター)を起こします。このクーデターにはピョートルから弾圧されたロシア正教会の支持も加わっています。

在位から半年でピョートルは廃位。幽閉されたあげく、エカチェリーナの愛人オルロフの兄の手によって暗殺されました。

エカチェリーナ2世 ロシア皇帝
出典:Wikipedia

これによってエカチェリーナは同年、33歳の若さで皇帝へと就いたのです。

啓蒙専制君主エカチェリーナ

18世紀から19世紀のヨーロッパで流行した啓蒙思想。フランス革命にも大きな影響を及ぼしましたが、エカチェリーナ自身もその思想を重視していました。

ロシアの近代化のために、専制君主による統治が相応しいとして、市民の自由・法の前での平等などの理念、そして財政活動の自由をかかげました。

ただ、改革推進の中心になるはずだった立法委員会がわずか1年と4ヶ月で終わってしまい、この改革が成果をあげる事はありませんでした。

大きな改革を望む一方、彼女は生粋のロシア人ではなかったため、大きな動きは貴族の反感を買う恐れがありました。民衆の間では農民一揆が頻繁に起こっていて、彼女の頭を悩ませます。

そんな中、1775年エカチェリーナは地方分権化を図ります。

地方行政の基本法を発布して、一県辺りの納税者の規模を決め、さらに県を群で割、新しい地域区分を敷いたのです。

各県には知事と副知事を置き、その役職には有能な政治家を送り込みました。

外交面でも彼女は手腕を発揮します。

プロイセンやオーストリアと手を結び、ポーランド分割を行いました。また、オスマン帝国と二度戦争を行い(露土戦争)、黒海北岸・ワラキアとモルダヴィアなども保護領として取得。

最終的にロシアの国土は大きく広がり、ロシア人の比率が50パーセントを割ったと言います。それだけ国を広げ、様々な民族を吸収したということでしょう。ここからロシアは多民族国家となっていったのです。

晩年の女帝

成功を収めた女帝エカチェリーナは、1796年11月に脳梗塞でこの世を去りました。享年67歳。

お気に入りの孫アレクサンドルに、帝位を継がせようと考えて準備をしている最中の出来事でした。

エカチェリーナ2世の後は息子のパーヴェル1世が即位しました。彼はアレクサンドルの父であり、エカチェリーナの長男です。

ただそのパーヴェルも父ピョートル3世同様暗殺されてしまったのです。(その後、エカチェリーナが継がせようとしたアレクサンドルが即位しています。)



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kumano
歴女という言葉が出来る前からの歴史好き。特に好きな歴史は日本の幕末とフランス革命。 好きな漫画:ベルサイユのばら、イノサン、るろうに剣心など。